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戦後75年の記憶、マッカーサー元帥(過去ログ))

2020-09-05 12:00:00 | 学問

 

幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。

あの悲惨な戦争を知らない世代が、ほとんどになってしまった。

知らないままに、政治が行われている恐ろしさを、今こそ、思いしめなければならない。

 

戦後70年の5年前の過去ログである。

幼なかった昭和の戦争の語り部の記憶である。

 

マッカーサーが日本に来た当時の事は、あまり記憶に無い。

天皇陛下よりも偉い奴が、日本に来たと言う話を、兄たちはしていた様に思う。

鬼畜米英と言われていた、ルーズベルト、チャーチルの内、ルーズベルトが、日本の敗戦の直前に死んだ。

当時の新聞は、ざまあ見ろ、これで勝てると、大々的に報道していた。

mcnjも、子供心に、ホッとした記憶がある。

ルーズベルトの後には、トルーマンが米大統領として着任した。

マッカーサーは、トルーマンに任命されて、極東地区の司令官に任命されたのであろう。

マッカーサーにとっては、それが不本意だったそうである。

 マッカーサーが着任して、真っ先に行ったのは、虱退治であるが、これは、前に書いたとおりである。

その次に行ったのが、食料の確保である。

配給制度はあったが、国内の自給が不十分であったから、国民は、みな、飢餓状態にあった。

ヤミ屋と言われるブローカー、満員列車での買い出しなどで、何とか糊口をしのぐのが、精一杯の状態であった。

 

マッカーサーは、米軍の放出物資を日本国民に与えたが、これは、大変にありがたかったらしい。

彼の人望は、急速に高まって行った。

朝鮮戦争の頃、原爆の使用を提案したマッカーサーは、突然解任されるが、日本国民にとっては、まさに、根耳に水の事であった。

朝の、ラジオで、NHKのアナウンサーが、そのことを放送していたが、声が上ずっていたことを覚えている。

国中が、悲しみに浸っていた。

戦争犯罪人は厳しく罰したが、敗戦国民に罰を与えず、飢餓から守ってもらったのが、心から、うれしかったのであろう。

こうして、マッカーサーは、全国民から惜しまれながら、日本を去っていったのである。

本土徹底抗戦、1億総玉砕、国体護持を叫んでいた、一部の不満分子も、まったく影を潜め、GHQによる、日本統治が安定した。

これに伴い、GHQは、不満分子の抑圧に、共産主義勢力を利用する必要は無くなった。

これが、後のレッドパージへと発展し、前に書いた、火炎ビン闘争へとつながっていくのであった。