アンネの日記

2009-09-19 19:02:26 | 日記風
 本として舞台として映画として何度となく扱われてきた話です。
 外国製作のテレビドラマで放送してました。

 なんとなくは知っている。けれどよくは知らない。

 1940代、戦争の最中、ユダヤ人として迫害され、隠れ家に住み続けたアンネの家族ともう1組の家族、途中から中年の独身の男の1人が合流し、計8人で2年間を過ごした日々を、13歳の娘・アンネの日記として書かれたものです。

 勿論、実話ですね。

 ドラマの始まりとして、私が日記を書くなんて……というアンネの言葉から始まります。
 その過酷な環境で日記を書く、そこでしか自分の気持ちをさらすことができない。

 それを考えてしまうと、今も昔も人の心は一緒で、今はインターネットのブログなどというものを通じて自分の気持ちを現しています。

 状況は過酷ですが、少女の感じることはいつの時代も変わらないようです。

 母は一緒に暮らすもう1組の家族に気を遣い、相手の奥さんに遠慮して何も言えない。その代わりのように娘のアンネに、ダメじゃないのと言ってしまう。娘はそんな母親にあの人からは母としても女の何も学ぶことがないと思う。
 どうしてママは判ってくれないの?
 
 姉は大人たちから愛される美人、姉なんか大嫌い。
 どこの姉妹でもあることと思います。

 アンネを尊重して理解してくれるのは父だけでした。
 その彼女も一緒に暮らすもう1人の家族の息子・ペーターと恋に落ちた時から、父親にも反旗を翻します。

 父はアンネの気持ちを書き綴った手紙を読み、こんなに悲しい手紙は初めてだ……と思春期の娘を持つ父の悲哀を呟きます。

 やがて戦争の局面が変わり、脱出できるかもしれないと人々の間に希望の光が灯ります。

 アンネの母親は上手くいってなかったもう1人の奥さんと……食べ物もろくにない状況の生活の中で、シャンプーはないの?私に石鹸で髪を洗えというの?……と言っていた奥さんにマニキュアを塗ってもらい、自由への憧れをかきたたせます。

 アンネと姉は語ります。かつて映画スターかダンサーになりたいと言っていたアンネは小説家になりたいと思い出します。文章を綴ることに独特の楽しさを見出していたのです。
 
 姉はアンネに言います。私は助産婦になりたい。
 そんなこと全然知らなかったと言うアンネに姉は言います。あんたは聞かなかったじゃない。姉は更に続けます。私はあんたが羨ましい。私がつらくなかったと思ってるの?いい子を演じてきたのよと。

 逃げることもできない隠れ家で常に顔を合わせていたのに相手の心の中までは判っていなかった。

 しかし、全てが快方に向かっている時、終りは突然やってきます。8人は見つかり、連行されます。

 連衡された後は……歴史が語っている通りです。

 連行されていく時、アンネは靴の紐が手が恐怖で震え結ぶことができません。それまで何かとぶつかり合っていた独り者の男が、変わりにそっと結びます。
 
 ここら辺はドラマですから実際にあったことがどうか知りません。

 しかし全てのものが心を通わし、最後の時を過ごすドラマの演出としてはよくできていました。

 アンネ自身、自分が書くものについては辛口になる……と語っていましたが、短い時間を輝く生命で綴ったんです。
 十分、合格でしょう。少しは自分に甘くしてあげても大丈夫よ。
 
 彼女の生命はまだ、日記の中で生き続けているのでしょう。
 あの時の少女のままで。

美脚なし

2009-09-19 17:06:48 | 日記風
 家の母は足が綺麗だと言われます。
 それは間違いなく誰にでも言われます。
 
 一見羨ましいことに聞こえますが
 本人曰く、
 「足しか見とらんのかっ」
 となります。
 
 足は誉められるが顔を誉められることがないという……。

 私もダンスをするようになってから、まあ、見られる足になったようですが、特別「足、綺麗ね」とは言われません。

 「美人ね」
 とも言われませんけどね。

 一箇所固定でも誉められるところがある方がいいんじゃないの?

 私、唯一あるとすれば
 「優しいそー」
 「大人しそうー」
 かしら。

 性格誉めですか?
 あまり嬉しいと思えないのは何故でしょう?

 確かに外見で誉められることないですねー。
 
 小さくていいわね?
 ぽちゃぽちゃしてていいわね?

 誉めてます?

 家の母はそれをよく私に言いました。
 誉めてません。

 ある婦人に、
 「道端に咲く清楚な花のイメージよね」
 と言われたことがあります。

 それは雑草……。
 ひねくれてとればそうなんですが……。

 踏まれても大丈夫そうなしぶとさがあります。

 「しぶとい」と言うのは私、誉め言葉だと思ってます。

 そうかー。
 しぶとそうなのか。

 誉められてるか?

その場面に出会うまで

2009-09-19 02:41:29 | 戯曲塾
 どうも最近戯曲の書き方が判らない。

 戯曲は台詞だけで構成されている本です。

 風景描写や人物描写の地の部分のない本です。

 ドラマを観ていても、役者がそれぞれ肉付けをしていますが、紙に書かれている台詞だけだとこんな感じなんだろうなーと想像しながら観てることが多いです。

 ドラマで使われる言葉と、戯曲で使われる言葉は、違います。
 なにがそんなに違うのか判りませんが、違う気がします。
 
 韓流ドラマが特に好きってわけでもないんですが、観やすいかもしませんね。
 
 今の日本のドラマって、専門に走ったものが多いから、舞台設定の説明をしないといけなくなる。
 これが凝った内容になればなるほど専門用語も出てくるし難しい。

 画(え)として観せてしまえる部分があり。
 台詞として説明しないと伝わらない部分もあり。

 そうなってくると登場人物が、あんまり感情的になってるわけにもいかなくなってしまう。
 決まった放送時間の中で収まらなくなりますわね。
 
 韓流ドラマは起承転結がはっきりしてる上に、感情に訴えかえる内容のものが多いから、そこら辺、スッキリしてる気がする。
 感情で捕らえればいいわけだから、こう盛り上げて、こう収めればいい。
 はっきりしてるかもね。
 
 と、どうしてもテレビをつければやっているドラマとの比較が多くなってしまうんですが、普通に舞台を観ていても、考えているのは似たようなことですね。

 役者の存在も演技もすっ飛ばして、物語の有無について考えている。

 疲れますわね。

 私は個人的に場面転換が嫌いなのです。
 いわゆる、一幕、一場、二場とかいわれるものですね。
 セットがチェンジしたり、暗転したすることですね。

 これが嫌いなんですわ。
 自分が書くものとしてです。人様がお書きになるものに関しては限りではありません。
 
 別にそこにこだわらなくてもいいんじゃない?という話は前からありますが、嫌い、なんです。
 それだけです。

 どうもこの、場面転換をせずにストーリーを進めることができなくなってるんじゃないかと……。

 そうやって、何故書けないんだ?という理由を辿っていけば書けるかと、今日はそう思って改めてこんな内容になりました。