私って扱いづらいだろうな…

2012-05-30 18:00:00 | 日記風
 さっき突然気付いた。

 人というのは本音は見せないものだ。


 私はわりと馬鹿の部類に入るので、嫌なものは嫌とはっきり言ってしまう。これは1番性質が悪く、裏取引みたいな真似ができない。

 でもこの世の中には、本音と建前を使い分け、相手の中に上手く取りいって相手を自分の思う方向へ引きづろうとする人がいる。
 策士というより、よくある処世術で、できる人は元々性格の中にあるし、親からしてそういうタイプだから、あまり気にならず、普通のこととして行っている。


 もしかして私はそれが見抜けず、真っ向から戦いを挑んだことがあったのではないか?

 個人VS個人の問題なので、特にどうということはないんだけど、そーか、そうだったとしたらそれが見抜けなかったのかー。




 と、突然関心してしまったのだ。

 人は年齢とともに変わることもある。性格自体はさして変わらないにしても(こういう面があったのか)と自分で驚く面が出てきたりする。


 私ですらそうである。

 そういう差はあったのかもしれないが、建前で処世する人間は、こういう真っ向から正論を投げる人間は苦手なようですね。

 言わば、甘言が通用しませんから。
 その頃、相手も甘言が使えるほど、大人ではなかったけどね。


 改めて私の性格って…扱いづらいのね、とだけ、思った。

 もう少し、人の本質を見抜かないとダメだな。

パラリンピックを目指して~驚異の挑戦~

2012-05-30 15:00:00 | ニュース
 こちらも選考が始まっているようです。

 途中から番組を見たが20の競技があるらしい。


 2人の人物が心に残った。

 右側が動かない、左脳に問題があるようだ。その女性が平泳ぎで水の中にいる間は全く何の不便も感じないという。
 本人が障害者ということは自覚している。
 彼女の場合は、右脳が動くと、左右同時に動いてしまうようだ。

 だから同じ動きをする平泳ぎだとなんの不便も感じない。

 水が彼女に希望を与えている。
 人は自ら来たからなのか。
 浮力が影響するからなのか。

 彼女は語っていた。
 普通の人たちとやり方は違うかもしれない。
 違うやり方をすればいい。


 今度が初の挑戦になるようだ。


 また4回も乗馬で出場してる選手もいる。そしてよい成績を収めている。
 生まれた時から関節が固く、上手く動くことができないそうだ。
 でも馬の上にいれば彼はそれを感じさせない。


 馬に乗るのは体力がいらないように見えるが、そうではないそうだ。

 私もこの間ラクダに乗ったから、ちょっと判る。馬とラクダは違うけどね。

 私の場合、ちょっと斜めに乗ってしまったので傾いたまま乗り続けて、治せなそうな所で身体を真っすぐにした。

 あれはあれできつよ。同じ体制を撮り続けている。乗り降りにしてもしゃがんでもらわないといけない。(馬は必要ないのかな、乗っているより、その乗り降りの方が怖い)



 でも彼は馬の背の鞍に身体を預け、波打つような動きに身を任せるのが上手いそうだ。健常者でもこれだけででる人はいないそうだ。どちらかと言えば運動神経がいい方なのだそうだ。

 何かが違う。

 みんな何かが違う。目に見えない部分でも…心の中でも…人と違う人は多くいる。

 それでもできる部分を最大限に活かし、どのようにそうしているか研究者たちはそれを研究し、これからの人々に役立てようとする。


 なによりも希望がある。パラリンピックという夢。

 それが1番、素晴らしい。夢のある人は素敵だ。

ツナ缶よ、お前もか

2012-05-30 13:00:00 | ニュース
 上がるらしいですね~。

 サラダ、パスタ、サンドイッチ、おにぎりまで活躍中の今のところ味方だったツナ缶がついに上がるらしいですね~~。


 原料になる、かつお、きばだまぐろの漁獲量が減ったことが第一の原因のようですね。

 大体こういう時に出てくるのが、ヘルシー志向で世界中が食べるようになったから、という理由だったりしますけど、そうみたいです。


 値上げをせず頑張ってくれる所もあるようですが、それもいつまでだろうか…という感じがありますね。


 ツナ缶よ、お前もか。ですが、これも時の流れ。


 どこかが上がれば、どこかが下がる、ないでしょうかね?


 でもこれだけ値上げが続くとそろそろ解決策を考える頭もできてくるから、それっと備える…奥の手レシピに走る奥様もいっらっしゃるかしら?


 逞しく乗り越えていくしたたかさが台所が必要だったりしますものね。

生きる機会を与えてもらった

2012-05-30 02:00:00 | 日記風
 どうもここのところ、生まれ出るものと去りゆくものが交錯していて、気分的には複雑だ。

 どっちも大変だよ。

 時代劇で「木の股から生まれてきたわけじゃあるめぇ」
 なんていうが、まさしくその通りでどこかで繋がっていながら、その生の中では大きな孤独を孕むこともある。どうしようもない寂しさに手も足も動かなくなることがある。

 それでもここにいるんだ。この鼓動が波打ってることに変わりはない。

 それをどう使うか、それは持ち主の意志次第だ。

 でも生まれるにしても去るにしてもその瞬間は1人であっても必ず誰かの手を借りている。借りなければこの世界に来ることも去ることもできない。


 そう考えると、人は1人じゃないんだよ。必ず誰かと繋がっているんだよ、と思わざるを得ない。

 日常でそれを感じずらい時はいっぱいあるあるけどね。


 今とりあえず、こうして暮らしていられるのも誰かのお陰だろう。


 いつかその恩が返せればと微力ながらも思う。


 人々が交錯し、喜怒哀楽をぶつけ合えるだけでも素晴らしい世界かもしれない。


 時たまそう思う。


 特に去りゆく人の気持ちを思う時、心の中で疼く何かがそれを示している。


 生きてる内が花なのか。

 生きる機会を与えてもらえたことが、全てなのか。


 私にはまだまだ判らない。