今日は少し過激な、大阪水曜ほっと集談会一世です。
本日申し上げることは、私一世の個人的な考えであることを初めに申し上げたい。
最近コロナ禍による集談会の休会が増えている。
社会的にも閉塞感が心の不安を生み更に雇用不安が追い打ちをかける。
神経症や鬱は、確実に増えているに違いない。
本来であれば、会員数が増えても当然である。
しかしながら現実は逆である。
発見会の会員数が2千人を割り幹事、世話人の成り手がないということを最近よく耳にする。
特に女性会員、20代~40代の若者世代の会員の減少が、深刻である。
何が原因なのか?
現場で毎月集談会を開催していて思う事のひとつは、集談会は森田理論を学ぶことが第一目的の場所なのか?という疑問である。
さらに森田療法は理論なのか?という素朴な疑問も感じている。
以前にも書いたが森田療法の療には、癒しという意味がある。
森田療法から理論を切り取った結果、本来の癒しはどこに行ってしまったのか?
これは極論であると承知している。
しかし理論である以上理論に長けている人間が上で、理論を知らない人間が下という構図になる。
自助グループであるはずなのに、見えない序列を感じることがある。
発見会とは本来そのような場所なのでしょうか?
入会当時私の参加していた地方の集談会は、毎月30~40人の参加者で活気にあふれており、学習の後の懇親会も大盛況であった。
一泊学習会が全国で実施され野外活動などレクリエーションも多かった。
森田療法の専門の講師も少なく幹事同士が話し合いを重ね、手探りの中で運営されていたと思う。
同じ苦しみを体験した人間として、まず寄り添い、共感がありその次に理論学習があったように思う。
私は40年前の事を現在に当てはめるつもりなど、まったくない。
重ねて申し上げる。
私は昔はよかったなどと言うつもりも、ノスタルジー的な感傷もない。
理論学習の環境は40年前とは雲泥の差である。
しかし時代がどれほど変わろうとも、発見会の基本は集談会での寄り添いであると、わたしは思う。
人生100年の時代に於いて50代の私などは、若輩者である。
今まで、発見会を支えていただいた団塊の世代の会員の皆さんには、感謝の言葉しか見つからない。
しかしそろそろ次世代の集談会の運営モデルを私たちが、自ら試行錯誤して創らなければならない時期が来ているのではないか!
そのためには、もっと私たち自身が声を挙げるべきではないか?
私たちのサードプレイス(職場、家庭以外の癒し空間)である集談会について今年本気で議論を深めたい。
1・23 一世