大阪水曜ほっと集談会一世です。
常々集談会で、寄り添うことの難しさを感じている私です。
特に初心者懇談会を始めてから、いっそうその思いが強くなりました。
ついつい、相手の話を聴いているようで自分の狭い経験を通じて、価値判断や自己主張をしているのではないかと思うことがあります。
ところで最近、私がとらわれと感じてきた苦しみとは、突き詰めれば、生老病死のスピリチュアルペインであったという事実に改めて気が付きました。
スピリチュアルペインは魂の痛みと訳される事もあります。
精神的な痛みとは似ているようですが全く違います。
最近新聞で読んだ、看護師、看護教員、ケアマネジャーで僧侶でもあられる、玉置 妙憂<たまおき・みょうゆう>さんの言葉が、心にしっくりときました。
終末期医療の現場で、様々な看取りを経験された玉置さんはずばり、
スピリチュアルペインとは、「問われても答えられないもの」と言われています。
たとえば人は「なぜ死ぬのか」「どれくらい生きられるのか」「私の人生は何だったのか」「なぜ自分は、このような環境に生まれたのか」これらの問いには答えがないのですね。
さらに人間の力では、どうすることもできないこと、それがスピリチュアルペインとも言われています。
集談会で語られる症状の背後には、決して誰にも言えないスピリチュアルペインが隠れているのかもしれません。
私たちは、その声なき声に本当に耳を傾けているのでしょうか。
人生100年時代を迎えるにあたり、悩みも多様化するでしょう。
私たちは森田理論というフィルターで、初めて参加された方の話の価値判断をするのでなくて、もっと幅広い知識や視点が求められると思います。
学べば学ぶほど、自分の無知に気づき、中途半端なアドバイスなどできなくなるでしょう。
生活の発見会に於ける、過剰なアドバイスをする一部の会員に言えることは、ずばり無知です。
2021・10・15 一世