~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
自由自在に良い面も悪い面も見分けて、良いほうへ心を変えるのが「観自在菩薩」で、
良い面に素早く切り変えのできる方は観自在です。
仏を目指して修行する方をボサターといいます。
私たちは、アボロキティーシュバラーといって過去、現在、未来の三世を見通す能力を
持つような偉大な者にはなれませんが、観自在菩薩でしたら、誰にでもなれます。
私たちは確かに三世を見通す能力があれば素晴らしいなあと思いますが、こんな能力がつきますと、
魂の修行ができないのです。
みな分かってしまうから生まれる必要はなくなってきます。
前もってすべての筋道が分かっていて、こちらへ行ったら駄目、
こう行ってこのようにすればよいというのでしたら、何も生まれてくる必要はありません。
ですからいくら失敗しても「ああ私は駄目人間だ」と思わなくてもいいのです。
二度と繰り返さないという修行法でしたら私たちは自信を持って修行できます。
失敗しても当たり前、それを学びとして次に繰り返さなければいいのですね。
「私はもう再び人の悪口を言いません」と言いながら、言うはしから次々と悪口を言っている人があります。
これでは何にもなりません。間違いと気付けば「過ちを悔い改めるのに憚ることなかれ」で、
遠慮せず勇気をもって改めたらいいのです。
イエス様がおっしゃるように「悔い改めよ、汝の罪は許されん」です。
悔い改めたらもう罪は許されます。しかし改め放しではいけません。
今度は良き償いをすることですね。例えば、よその人をひどい目に会わせて、
殴って泣かせます。今度悔い改めましたと言って相手に謝らないでいると「こら」と殴られます。
相手からド突いてもらうのが償いです。
ド突いてもらって「はい、有難うございました」と言って受けるのが償いの行為です。
どんなことでも「ああ悪い事をした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、反省すればするほど自分が嫌いになるとよくおっしゃいますが、
それはその後の実践をしていないから苦しいのです。
ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
反省をして償いのために善き行いをしますと、「ああ人として生まれて良かった」という
喜びが必ず与えられます。
反省をして自分の過ちに目覚め、次に償いのために善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。
「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、そこで悔い改めることができて
償いをさせてもらえて良かったなあ」という喜びが戴けるはずですね。
頭で反省するだけで実践がありませんと、だんだん落ち込んでいきます。
~ 感謝・合掌 ~
※ 関連ブログ http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi