~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
神様の御心を私たちがこの肉体をもって実践することです。
神様の御心の実践とは相互依存、お互いに持ちつ持たれつの助け合い励まし合いで生きることです。
もう少し細かく砕いていいますと、私たちは自分に都合の悪い方はすぐ差別をします。
「あの人は嫌な人」、ひどくなりますと「あんな嫌な人とものも言いたくない」とか
「あの人のほうを向いて小便もしたくない」とか言います。
嫌な人のほうを向いて小便するのももったいないというのですが、それほど嫌うこと自体、
差別をしているのです。
あの太陽の熱・光のように、いっさい差別なく平等に生きる思いを持たせていただくように、
神の子であればこれを実践するのは当然のことです。
私たちは自分の悪口をちょっと言われると、たちまち三倍五倍にして返そうとします。
「私は何も言っていないのに、あの人は私のことをこんなに悪く言った、もう許せない」と、
今度はその人の悪口を一生懸命に言うのですね。しかしお日様を見て下さい。
どれほどお日様を侮辱しても、どれほど悪口を言って怒鳴ってもいっさい関係なしに、
ただ熱と光を燦々と与え給います。
私たちも自分のとって都合の悪い方、自分に良くしてくれない方、
或いは悪口を言ってくれる方に対しても、難しいことですけれども、
どんなふうに言われようがされようが、
なお燦々と与え続ける太陽の御姿をお手本にして生きたいと思います。
あの太陽の御姿そのものが神ご自身の御姿です。
私たちも神の子としてそのように努力して生きるべきです。
私たちはよく人を裁きます。
気に入らない人に対しはすぐ言い返したり、こきおろしたりしてその人を裁き、
復習し、仕返しをしようとしますね。
これも神の心に背いております。
お日様から仕返しは受けません。
頭の上におられるお日様に向かって
「暑いなあ、照りつけやがって」と言って唾を吐きかけてみなさい。
その唾は必ず自分に返ってきますが、これはお日様とは関係のないこと、
神様に関係のないことです。
天に唾した行為が自分に返っただけです。
これを天罰覿面といいます。
自分で自分に罰を当てているのであって天はそんなものは知らん顔をなさっています。
~ 感謝・合掌 ~