浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

集い来る過去世に学びし
友がらの一人一人の
愛おしきかな

「ブッダのことば」より。

2017-04-15 00:13:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                 八、パス―ラ

827、諸々の審判者がかれの所論に対し
      「汝の議論は敗北した。論破された」というと、
      論争に敗北した者は嘆き悲しみ、
      「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。

828、これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、
      これらの人々には得意と失意とがある。
      ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
      称賛を得ること以外には他に、なんの役にもたたないからである。

829、あるいはまた集会の中で議論を述べて、
      それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、
      かれはそのために喜んで、心が高ぶる。


                 ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダのことば」より。

2017-04-14 00:04:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

                 八、パス―ラ

824、かれらは、「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、
       他の諸々の教えは清らかでないと説く。
       「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、
       それぞれ別々の真理に固執している。

825、かれらは論議を欲し、集会に突入し、
       相互に他人を〈愚者である〉と烙印し、他人(師など)をかさに着て、
       論争を交わす。
       ―――みずから真理に達した者であると称しながら、
       自分が称賛されるようにと望んで。

826、集会の中で論争に参加した者は、
       称賛されようと欲して、おずおずしている。
       そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、
       (他人から)論難されると、怒る。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「ブッダのことば」より。

2017-04-13 00:22:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

               七、ティッサ・メッテイヤ

820、独りでいる修行をまもっていたときには
       一般に賢者と認められていた人でも、
       もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821、聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、
       独りでいる修業を堅くまもれ。
       婬欲の交わりに耽ってはならない。

822、(俗事から)離れて独り居ることを学べ。
       これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。
       (しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。
       ―――かれは安らぎに近づいているのだが。

823、聖者は諸々の欲望を顧みることなく、
       それを離れて修業し、激流を渡りおわっているので、
       諸々の要望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」―――


             ~ 感謝・合掌 ~





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「ブッダのことば」より。

2017-04-12 00:06:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

               七、ティッサ・メッテイヤ

817、かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。
      このことわりをも見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818、かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。
      このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じ入ってしまう。

819、そうして他人に詰(なじ)られたときには虚言に陥る。
      すなわち〔自らを傷つける〕刃(悪行)をつくるのである。
      これがかれの大きな難所である。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「ブッダのことば」より。

2017-04-11 00:05:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
             第四 八つの詩句の章 

            七、ティッサ・メッテイヤ

814、ティッサ・メッテイヤさんがいった、―――
      「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いて下さい。
      あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815、師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。
      婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪な行いをする。
      これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816、かつては独りで暮らしていたのに、
      のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。
      世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダのことば」より。

2017-04-10 00:06:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                   六、老い

810、遠ざかり退いて行ずる修行者は、
       独り離れた座所に親しみ近づく。
       迷いの生存の領域のうちに自己を現わさないのが、
       かれにふさわしいことであるといわれる。

811、聖者はなにものにもとどこおることなく、
       愛することもなく、憎むこともない。
       悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。
       譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812、たとえば蓮の葉の上の水滴、
       あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、
       見たり学んだり思索したどんなことについても、
       汚されることがない。

813、邪悪を掃い除いた人は、観たり学んだり思索した
       どんなことでも特に執着して考えることがない。
       かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。
       かれは貪らず、また嫌うこともない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-09 00:04:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                   六、老い

807、夢の中で会った人でも、目がさめたならば、
        もはやかれを見ることができないない。
        それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、
        もはや再び見ることができない。

808、「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、
        また聞かれた人でも、死んでしまえば、
        ただ名が残って伝えられるだけである。

809、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、
        憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。
        それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏を見たのである。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「ブッダのことば」より。

2017-04-08 00:16:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                   六、老い

804、ああ短いかな、人の生命よ、百歳に達せずして死す。
       たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805、人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。
       (自己の)所有しているものは常住ではないからである。
       この世のものはただ変滅するものである、と見て、
       在家にとどまっていてはならない。

806、人が「これはわがものである」と考える物、
       ―――それは(その人の)死によって失われる。
       われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に
       屈してはならない。


                  ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-04-07 03:23:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            五、最上についての八つの詩句

802、かれはこの世において、見たこと、学んだこと、
       あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも考えていない。
       いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、
       この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803、かれらは、妄想分別をなすことなく、
       (いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
       かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。
       バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
       このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。


               ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-04-06 00:06:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            五、最上についての八つの詩句

799、智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、
      世間において偏見をかまえてはならない。
      自分を他人と「等しい」と示すことなく、
      他人よりも「劣っている」とか、
      或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800、かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、
      学識に関しても特に依拠することをしない。
      人々は(種々異った見解に)分かれているが、
      かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801、かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、
      この世についても、来世についても、願うことがない。
      諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、
      かれには何も存在しない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-05 00:07:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            五、最上についての八つの詩句

796、世間では、
      人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、
      それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。
      それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797、かれ(=世間の思想家)は、
      見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、
      自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、
      それ以外の他のものをすべてつまらないものであると見なす。

798、ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
      と見なすならば、それは実にこだわりである。
      と〈真理に達した人々〉は語る。
      それ故に修業者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、
      または戒律や道徳にこだわってはならない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-04 00:09:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            四、清浄についての八つの詩句

794、かれらははからいをなすことなく、
      (何物かを)特に重んずることもなく、
      「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
      結ばれた執着のきずなをすて去って、
      世間の何ものについても願望を起こすことがない。

795、(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。
      かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。
      かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。
      かれは〈この世ではこれが最上のものである〉と固執することもない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-03 02:26:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            四、清浄についての八つの詩句

791、前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、
       煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。
       かれらは、とらえては、また捨てる。
       猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792、みずから誓戒をたもつ人は、想いに耽って、
       種々雑多なことをしようとする。
       しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、
       種々雑多なことをしようとしない。

793、かれは一切の事物について、
       見たり学んだり思索したことを制し、支配している。
       このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、
       この世でどうして妄想分別させることができようか。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-02 00:32:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

            四、清浄についての八つの詩句

788、「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。
       人が全く清らかになるのは見解による」と、
       このように考えることを最上であると知って、
       清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)
       智慧で在ると理解する。

789、もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、
       あるいはまた人が智慧によって苦しみを捨て得るのであるならば、
       それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても
       清められることになるであろう。
       このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790、(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、
       見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちどれによっても
       清らかになるとは説かない。
       かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、
       この世において(禍福の因を)つくることがない。


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「ブッダのことば」より。

2017-04-01 00:42:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

            三、悪意についての八つの詩句

786、邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、
      さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
      邪悪を掃い除いた人は、いつかわりと驕慢とを捨て去っているが、
      どうして(輪廻に)赴くであろうか?
      かれはもはやたより近づくものがないのである。

787、諸々の事物に関してたより近づく人は、
      あれこれの論議(誹り、噂)を受ける。
      (偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、
      どのように呼び得るであろうか?
      かれは執することもなく、捨てることもない。
      かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。


                ~ 感謝・合掌 ~







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