生まれて初めて訪れた広島で、行かなくてはと思っていたのが、宮島と原爆ドームでした。宮島から広島に戻り、市電に乗りました。原爆ドーム前という市電の駅で降ります。市電も番号系統をしっかり確認して乗車します。
64年前の原爆後のそのままの姿でこのドームはいまだに、建っています。瓦礫のような大きな石もその敷地内に散らかっています。外国人旅行者の姿が目立ちました。
お疲れモードの私は、気合を入れて向かったのですが、64年前に悲惨な現場であった広島の被爆地は、川に囲まれた市街地ということもあり、思ったより以上にとてもピースフルな空間というかエネルギーに変換されていると思いました。
広島は大きな川があちこちにあって、川の水もけっこう綺麗だと思います。この川がとても重要な気がします。原爆投下地というのが、この傍にありますが、今はマンションやビルが立ち並んでいます。放射能の悪影響とかはないのでしょうか?と思いつつ、被爆中心地のマンションを眺めていました。
原爆ドームから橋を渡った中州が平和記念公園になっていて、よく8月6日にTVで目にする式典をやる公園がありました。そこに絶えず灯されている永遠の火があります。それは宮島の弥山に古代からず~~っと火を絶やしたことのない火(手元にガイドブックがないので、うろ覚え・・・)を灯してある名所があって、そこの火だということです。
資料館は冬場は4時までだったので、最初からあきらめていたのですが、フラフラと歩いていたら、警備員さんが、ここの原爆資料館(新しい地下に玄関がある)は5時までですから、どうぞ!と言ってくれましたので、入りました。
原爆後の街並みが見れたり、戦没者、被爆者名簿が写真つきであったり
たまたま映像で被爆者の体験記を大型ビジョンで絵本形式でやっていました。ナレーションは日本語で、英語の字幕が付いて、体験者の話を伝えています。小学生だった男の子の体験記で、原爆の日に焼けどで陸軍の衣料品を扱う建物に運ばれて、毛布を2枚もらって、寝ていたそうです。足の踏み場もないほどに、人々が横たわっていて、皆さんうめき声を上げているのは、ほとんど身体が焼け爛れているからで・・・そのうち静かになったと思ったそうです。
翌日、目を覚ましたら静かに息を引き取った方々は荷車で重なって小学校の校庭に運ばれて行ったそうです。大きな丸いプールのようなものが校庭にいくつもあって、そこに人々は投げ込まれ、軍人さん(日本の)が油を流しいれ、そこに火を着けて、人々が焼かれていたそうです。校庭が火葬場になっていた。それをその少年は目にしたそうです。
この事実を戦争を必要だと考えている人々も知った方がいいに違いありません。
戦争とは尋常ではない異常な日常の連続です。普通の神経では過ごせない、乗り切れない毎日でしょう。
私はお里出産の母の実家のあった長崎で生まれました。長崎も広島同様に原爆が投下されましたので、原爆資料館には足を運んだ事があります。母の友人・知人にも被爆された方もいました。明るい県民性なのか?誰も原爆や戦争の事を恨んでいる様子はありません。事実は事実、過去は過去という感じです。
被爆して亡くなった方々の魂は輪廻転生をして、生まれ変わっている頃か、すでに生まれ変わっているのだろうな。。。と思います。
今の平和に感謝をして、この場所を後にしました。
ホテルに帰る頃には、やはりヘトヘトだったので、駅ビルのスーパーでお酒と塩を購入して、酒とお塩を入れたバスタブに浸かりました。あ~すっきり、身体が楽になりました。
64年前の原爆後のそのままの姿でこのドームはいまだに、建っています。瓦礫のような大きな石もその敷地内に散らかっています。外国人旅行者の姿が目立ちました。
お疲れモードの私は、気合を入れて向かったのですが、64年前に悲惨な現場であった広島の被爆地は、川に囲まれた市街地ということもあり、思ったより以上にとてもピースフルな空間というかエネルギーに変換されていると思いました。
広島は大きな川があちこちにあって、川の水もけっこう綺麗だと思います。この川がとても重要な気がします。原爆投下地というのが、この傍にありますが、今はマンションやビルが立ち並んでいます。放射能の悪影響とかはないのでしょうか?と思いつつ、被爆中心地のマンションを眺めていました。
原爆ドームから橋を渡った中州が平和記念公園になっていて、よく8月6日にTVで目にする式典をやる公園がありました。そこに絶えず灯されている永遠の火があります。それは宮島の弥山に古代からず~~っと火を絶やしたことのない火(手元にガイドブックがないので、うろ覚え・・・)を灯してある名所があって、そこの火だということです。
資料館は冬場は4時までだったので、最初からあきらめていたのですが、フラフラと歩いていたら、警備員さんが、ここの原爆資料館(新しい地下に玄関がある)は5時までですから、どうぞ!と言ってくれましたので、入りました。
原爆後の街並みが見れたり、戦没者、被爆者名簿が写真つきであったり
たまたま映像で被爆者の体験記を大型ビジョンで絵本形式でやっていました。ナレーションは日本語で、英語の字幕が付いて、体験者の話を伝えています。小学生だった男の子の体験記で、原爆の日に焼けどで陸軍の衣料品を扱う建物に運ばれて、毛布を2枚もらって、寝ていたそうです。足の踏み場もないほどに、人々が横たわっていて、皆さんうめき声を上げているのは、ほとんど身体が焼け爛れているからで・・・そのうち静かになったと思ったそうです。
翌日、目を覚ましたら静かに息を引き取った方々は荷車で重なって小学校の校庭に運ばれて行ったそうです。大きな丸いプールのようなものが校庭にいくつもあって、そこに人々は投げ込まれ、軍人さん(日本の)が油を流しいれ、そこに火を着けて、人々が焼かれていたそうです。校庭が火葬場になっていた。それをその少年は目にしたそうです。
この事実を戦争を必要だと考えている人々も知った方がいいに違いありません。
戦争とは尋常ではない異常な日常の連続です。普通の神経では過ごせない、乗り切れない毎日でしょう。
私はお里出産の母の実家のあった長崎で生まれました。長崎も広島同様に原爆が投下されましたので、原爆資料館には足を運んだ事があります。母の友人・知人にも被爆された方もいました。明るい県民性なのか?誰も原爆や戦争の事を恨んでいる様子はありません。事実は事実、過去は過去という感じです。
被爆して亡くなった方々の魂は輪廻転生をして、生まれ変わっている頃か、すでに生まれ変わっているのだろうな。。。と思います。
今の平和に感謝をして、この場所を後にしました。
ホテルに帰る頃には、やはりヘトヘトだったので、駅ビルのスーパーでお酒と塩を購入して、酒とお塩を入れたバスタブに浸かりました。あ~すっきり、身体が楽になりました。