古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

温泉『ゆぴか』に入って、のんびりしました。

2020年05月25日 20時35分11秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日『ゆぴか』(白雲谷)温泉に電話かけてみたら、「うちは18日からやってます!」。
「よかたん」温泉も「とどろき」温泉もコロナ休みだし、あきらめていたのに、「温泉に入れる!」。勇んで月曜日に出掛けました。
 入口で体温をチェックされて、久しぶりの温泉です。小野市にはすぐれた専門の方がおられて、公園も街の通りも草花がきれいに植え込まれています。「ゆぴか」の玄関アプローチも、草花に彩られています。

 そういえば西宮の老人友だちが、「老人会の草花見学バスで小野市に来た」と話していました。なかなかいい眺めです。
 温泉はリニューアル工事をして、まえと風呂場の様子がちがっていました。この温泉はまわりの景色が見事です。池があり山があり、申し分のない眺めです。
 いい気分で温泉につかり、お昼は途中のうどん屋さんで食べました。

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小説家・阿川弘之のこと

2020年05月25日 02時52分56秒 | 古希からの田舎暮らし
『きかんしゃやえもん』はひらがなで書かれた童話です。ことばの調子がよくて、「読み聞かせ」をすると子どもたちはよろこびます。教科書に載ったこともあります。我が家でも二人の娘たちが幼い頃は〈読み聞かせ〉で、また〈自分で読んで〉、ボロボロになるまで愛読しました。いまも多くの子どもたちに愛読されています。
 この童話の作者が、小説家の阿川弘之です。
 国民には長女の阿川佐和子のほうがよく知られていますが、父親の阿川弘之は94歳まで生きた小説家でした。多くの作品を残し、文化勲章も受けています。
 ぼくは昭和20年8月、日本が負けたときは国民学校(小学校)2年生でした。田舎の学校でも、2学期から教科書に墨を塗らされました。「兵隊さん」と書いてあれば、「ハイ、ここは墨で塗りつぶしなさい」。そのうち新聞みたいな紙の、チラシみたいな数ページの粗末な教科書が配られて勉強しました。
 中学の音楽の時間には、「君が代」にかわる新しい国歌を目指す歌『緑の山河』を歌いました。君が代や日の丸は排除して、「あの戦争が軍人が悪かった」と習いました。
 日本が「どんな小さな穴をくぐって敗戦にこぎつけたか」を知ったのは、大人になってからです。学校では一切習いませんでした。鉄の船や飛行機がやってくるのに、竹槍訓練を国民に強いていた軍人たちは、頭がおかしい。それが当時はまかり通ったのです。

 阿川弘之の『井上成美』を時間をかけて読みおわりました。そして阿川弘之が、海軍の三人の大将=山本五十六/米内光政/井上成美/の評伝を、渾身の力をふり絞って書いた「こころ」をおもいました。
 阿川でなければ書けなかった本です。特に井上成美という人間を、歴史の風雪の中に、大地に足を踏ん張って立たせた、筆力に敬意を表します。
 
 本を読むのは好きで、いろんな作家の本も読みましたが、阿川の作品は軍隊や戦争にまつわるものでした。本の題を見ただけで敬遠していました。そんな育ち方生き方をする世代でした。80歳になってから彼の作品を読み、彼のこころが伝わりました。
 日本はひどい戦争をして、外国を侵略し、国民を粗末にし、犠牲にして、軍人がのさばっていた。そんな軍人ばかりではなかった。立派な人がいた。どんな時流にも流されない、自分の眼を信じて行動する人がいた。そんな人が力ある立場に立てていたのは奇跡だったかも。しかし米内も井上も右翼に殺されず、信念を全うすることができた。彼らがいたから日本は敗戦に到達することができた。
 いつの時代も、そんな立派な人はいる。こんなに沢山の人間が生きているんだもの。しかし、いまもそんな立派な人は、力ある立場に立てない。しょうもない人が立って、仕切っている気がする。
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