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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

大豆を「本植え」しました。

2021年06月21日 19時44分21秒 | 古希からの田舎暮らし
 6月8日に「苗立て」用に播いた大豆が「いい苗」になりました。13日目です。今日は50本だけ苗を「本植え」してみました。

 左の畝は金胡麻です。道子さんはこれから間引いて、一本立ちにします。右が「本植え」した大豆です。『サチユタカ』は間を15センチとるようにネットには書いてありますが、去年は20センチの「千鳥植え」にしました。10キロ超の収穫でした。今年は30センチの千鳥植えにします。風通しをよくして、気持ちよく育ってほしいです。
 味噌用の大豆は6キロ必要です。明日は残りの作業をして、全部で200本近い苗を本植えます。
 9日には苗立て用の黒豆を播きました。こちらは生長がおそいので、あと5日くらいしてから本植えします。
 街の方(かた)にコロナ・ワクチンの様子をきくと、「ワクチン接種圧力」はかなりのものだそうですね。戦時中のように、まさか「非国民!」呼ばわりされることはないでしょうね。
 でもわからんなー。体質は変わらないし、そんなに進化してないし。
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「おもいながら」畑仕事をしました。

2021年06月21日 01時40分34秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日亡くなった弟は昭和15年12月生れ。ぼくは昭和12年10月生れ。3歳ちがいです。
 ぼくは昭和19年に小学校(当時は「国民学校」といいました)に入学しました。田舎の学校でも登校するときは、防空頭巾を持たされました。体育の授業だったと思いますが、忠魂碑の横の石垣にむかって、枝を数センチに切った木片を投げました。手榴弾を投げる訓練です。しかし小学校の一年生が木片を投げるのです。10メートル離れた石垣でも届かなかったかも。
 運動場にスリバチのような穴が掘られ、その斜面をグルグル走る訓練もありました。敵の飛行機が飛んできたら爆弾を落とす。そのときは山の横穴に避難する。その避難訓練もありました。ごとに横穴が掘ってあり、その穴に避難します。「方地」といううちのの穴は一番深く掘ってあり、うれしかった。でも敗戦後一番早く崩れました。土が柔らかいところだったのでしょう。
 避難するときは、もちろん防空頭巾をかぶります。頭巾には、氏名/血液型/が縫い付けてあります。ぼくは「A型」と書いてあったと思います。学校で調べたのか。ずっとA型と思っていました。結婚してから調べて「O型」とわかりました。
 ほんとうの空襲警報が出たことはありませんが、訓練で警報が出たことがあります。まず警戒警報が出ます。警報は道むかいの役場の鐘が鳴ります。空襲警報が出たら防空頭巾をかぶって山の穴に避難します。それまでは授業です。でもドキドキして落着きません。
 我が家でも防空壕を掘りました。「上の畑」に祖母と母が掘るのです。お隣りの防空壕は、家の庭に早くできました。うちの防空壕は上の畑に50センチ足らず土を掘り出して、屋根もつきません。雨が降ると水がたまります。どうも本気で掘る気はなかったようです。敵の飛行機どころか味方の飛行機も飛んできたことはありません。そんな片田舎でした。
 弟は昭和22年に小学校に入学しました。戦時中の記憶はありません。戦争があったことも、敗戦後に教科書に墨を塗ったことも知りません。わずか3歳の差ですが、ぼくの「あの戦争での国民への仕打ちは許せない」思いはその間で切れてきます。彼の正義感は〈弱者の人権〉にむかいました。
 そんなことを思いながら、畑仕事をしました。大豆の畝に鶏糞を入れて耕しました。22日には大豆の苗を植え込みます。
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