きのうは朝から日が昇って晴れです。畑仕事ができる。行ってみると畝間に雨水がたまっています。曼珠沙華が咲いている間は土手の草刈りを控えていました。8月末に刈ってから一ヵ月半。久しぶりにきれいにしようと、土手の草刈りに精を出しました。畔のまわりの遊歩道も畑を一周できるように草を刈りました。やっと晴れたと思ったら今日はまた雨です。田んぼの稲はまだ残っているのに。あーあ。
父の『引揚げ記』 (13)
昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
昨夜生米を噛んでから何も食べていないので、ご飯のうまい事うまい事、またたく間にごのご飯を食ってしまった。
「あなたも無事、日本に帰れればいいがなあ。また日本に行っている徴用の朝鮮人も無事に帰ってくればいいのだがなあ」
と若者は大変美しい心の持ち主であった。
その若者はお昼の辨当まで作ってくれた。地獄で佛に会ったような拝みたい心を持っているその男と別れて、また歩きはじめる。
人間はお互いに敵視していても、また人の道と誠意は常に変らないものであるとつくづく考えさせられた。
また小さな山の小道を歩く。坂道なので背の荷物のリュックが肩に食い込む。今日中に連川まで辿りつかなくてはならないと、一歩一歩歩くのだが、それが堪えられない程疲れていて苦しい。気ばかり歩くのだが足が進まない。一山越えても家はなくまだ次の山が待っている。
その頃にはもう足の裏が針を差すように痛くて、一歩も歩けなくなった。石に腰を下ろして地下足袋を脱いでみると、足の裏にできた大きな豆が破れて、血が流れているからである。思ってみれば昨日伊川を出発してからもう何十キロメートル歩いた事か。一休みしたいがその余裕の時間はない。痛む足を引きずり引きずり歩いてゆく。
向うから歩いて来る人があるので、連川への道を尋ねるとその人も日本語がわかって、こちらは道が違うというのである。この時程がっかりした事はなかった。
今まで歩いた事が何にもならない。仕方がないので私は、地下足袋を脱ぎ、裸足になって今まで来た方向と反対の道を歩み出した。
一人の朝鮮人が私に近づいて来ると、
「お前の持っている背中の荷物は何か」と尋ねる。
「背中の荷はシャツで、袋の中は米だ」というと、
「今こちらでは塩がなくて皆が困っている。若し塩を持っていたらいくらでもいいから分けてもらいたい」と云う。
生憎私は持っていないのでどうする事も出来ない。
「煙草はいらないか」と云うから、
「ほしい」と云うと、
「それなら煙草の世話をしてやるから銭を出せ」と云って一軒の家に連れて行って、乾燥中の煙草を五十円ばかり分けてもらった。
そして四キロメートルばかり歩き続けていると大きなに辿りついた。
ところがそので山の道は途絶えている。どうしても山を越えなければならないという事であったので、汗を流しながら山に登って行く。すると山の道は尽きて一歩も歩けなくなった。そして向うに見えるものは山ばかりで、どこまで行っても開けそうにない。
疲れ切った時の山登りであるので、体は一層疲れてしまった。どうしたらいいのか困っていると、一人の若い者がそこを通ったので、
「連川へはどの道を行ったらいいか」と尋ねる。
「連川はここからまだまだ遠いですよ」と若者は云う。
「何でもこちらの山を越えると辿りつく、という事を聞いてきたのですが」
「こちらから行けないではないが、先ず鉄原に出て、それから行くのがはやい」
「それはわかっているのだが、鉄原にはソ聯兵が入っているという事だから、それに捕まらない為にこちらの方に廻ったのです」
「ここのでも今日ソ聯兵が入って来るというので、各家庭から鶏を集めたり卵を集めたりしてその歓迎の準備をしています。私はこれから作寧に行くところです」
私の行くところでは既にソ聯兵が入っているので、この上は覚悟しなくてはならない。まあ行き着くところまで行くまでだ、と覚悟を決める。
「それでは途中まで一緒に歩いてやる」
と若者が云うので、大いに助かって感謝した。
あまり疲れているので「荷物を持って下さらんか」と頼むと、「さあ」と考え込む。「お金はいくらでも出す」と私が云うと「では百円下さい」と云う。私は早速百円を出した。
「ちょっと待って下さい。もう少し先まで歩いてから持ちますから」
若者はお金を受け取って、そう答えた。変なことを云うなと思って、若者について行くと、「人に見られると具合が悪いのです」と云う。
「それはどうして」
「このでは日本人と仲良くした人々は皆やられてしまった。私もあなたの荷物を持ったという事がわかれば、後での人々にひどくやられてしまうのだ」
私はそれを聞いて、さもありなんと思った。 (つづく)
父の『引揚げ記』 (13)
昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
昨夜生米を噛んでから何も食べていないので、ご飯のうまい事うまい事、またたく間にごのご飯を食ってしまった。
「あなたも無事、日本に帰れればいいがなあ。また日本に行っている徴用の朝鮮人も無事に帰ってくればいいのだがなあ」
と若者は大変美しい心の持ち主であった。
その若者はお昼の辨当まで作ってくれた。地獄で佛に会ったような拝みたい心を持っているその男と別れて、また歩きはじめる。
人間はお互いに敵視していても、また人の道と誠意は常に変らないものであるとつくづく考えさせられた。
また小さな山の小道を歩く。坂道なので背の荷物のリュックが肩に食い込む。今日中に連川まで辿りつかなくてはならないと、一歩一歩歩くのだが、それが堪えられない程疲れていて苦しい。気ばかり歩くのだが足が進まない。一山越えても家はなくまだ次の山が待っている。
その頃にはもう足の裏が針を差すように痛くて、一歩も歩けなくなった。石に腰を下ろして地下足袋を脱いでみると、足の裏にできた大きな豆が破れて、血が流れているからである。思ってみれば昨日伊川を出発してからもう何十キロメートル歩いた事か。一休みしたいがその余裕の時間はない。痛む足を引きずり引きずり歩いてゆく。
向うから歩いて来る人があるので、連川への道を尋ねるとその人も日本語がわかって、こちらは道が違うというのである。この時程がっかりした事はなかった。
今まで歩いた事が何にもならない。仕方がないので私は、地下足袋を脱ぎ、裸足になって今まで来た方向と反対の道を歩み出した。
一人の朝鮮人が私に近づいて来ると、
「お前の持っている背中の荷物は何か」と尋ねる。
「背中の荷はシャツで、袋の中は米だ」というと、
「今こちらでは塩がなくて皆が困っている。若し塩を持っていたらいくらでもいいから分けてもらいたい」と云う。
生憎私は持っていないのでどうする事も出来ない。
「煙草はいらないか」と云うから、
「ほしい」と云うと、
「それなら煙草の世話をしてやるから銭を出せ」と云って一軒の家に連れて行って、乾燥中の煙草を五十円ばかり分けてもらった。
そして四キロメートルばかり歩き続けていると大きなに辿りついた。
ところがそので山の道は途絶えている。どうしても山を越えなければならないという事であったので、汗を流しながら山に登って行く。すると山の道は尽きて一歩も歩けなくなった。そして向うに見えるものは山ばかりで、どこまで行っても開けそうにない。
疲れ切った時の山登りであるので、体は一層疲れてしまった。どうしたらいいのか困っていると、一人の若い者がそこを通ったので、
「連川へはどの道を行ったらいいか」と尋ねる。
「連川はここからまだまだ遠いですよ」と若者は云う。
「何でもこちらの山を越えると辿りつく、という事を聞いてきたのですが」
「こちらから行けないではないが、先ず鉄原に出て、それから行くのがはやい」
「それはわかっているのだが、鉄原にはソ聯兵が入っているという事だから、それに捕まらない為にこちらの方に廻ったのです」
「ここのでも今日ソ聯兵が入って来るというので、各家庭から鶏を集めたり卵を集めたりしてその歓迎の準備をしています。私はこれから作寧に行くところです」
私の行くところでは既にソ聯兵が入っているので、この上は覚悟しなくてはならない。まあ行き着くところまで行くまでだ、と覚悟を決める。
「それでは途中まで一緒に歩いてやる」
と若者が云うので、大いに助かって感謝した。
あまり疲れているので「荷物を持って下さらんか」と頼むと、「さあ」と考え込む。「お金はいくらでも出す」と私が云うと「では百円下さい」と云う。私は早速百円を出した。
「ちょっと待って下さい。もう少し先まで歩いてから持ちますから」
若者はお金を受け取って、そう答えた。変なことを云うなと思って、若者について行くと、「人に見られると具合が悪いのです」と云う。
「それはどうして」
「このでは日本人と仲良くした人々は皆やられてしまった。私もあなたの荷物を持ったという事がわかれば、後での人々にひどくやられてしまうのだ」
私はそれを聞いて、さもありなんと思った。 (つづく)