古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「昭和2年生まれ」と「昭和12年生まれ」

2022年01月26日 11時59分15秒 | 古希からの田舎暮らし
 城山三郎の『嬉しゅうて、そして … 』という随筆の本にこんな文がありました。それを見てぼくの思ったこと。


 吉村昭(作家)さんは、私(城山三郎)の作品集のためにこんな解説を書いてくれたことがある。

 私(吉村昭)は、昭和20年夏に敗戦という形で終わった戦争に対する考え方は、その時の年齢によって相違するということを、エッセイに書いたことがある。極端に言えば、一歳ちがうだけで戦争観がことなっている、と。『大義の末』を読んだ私は、自分の戦争についての考え方が氏のそれと確実に合致し、同年生まれであるからだと思った。(『城山三郎伝記文学選4』「昭和2年生れの眼差し」)

 昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。「末期戦中派」という言葉があるが、私(城山三郎/吉村昭)たちは末期も最末期である。  (中略)  私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、軍神杉本五郎中佐の著書『大義』に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生に志願した。自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。上官による意地悪の日々。士官は白いパンを食べ私たちには芋の葉と蔓(つる)だけ。そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱え出す大人たち。この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。自分の体験を『大義の末』『生命の歌』といった小説に書いた。
 吉村さんは、その私の作品に、自分と共通するものを感じ取ったようだ。

 少年であった私(吉村昭)の眼に映った戦時下の日本人は、戦争を勝利に導こうと努めている人たちの群れであり、あの人たちが終戦の日を境にカメレオンが環境によって体色を変えるように変節したことに、私は全くの虚脱状態におちいっていった。少年と青年のはざまにあった私は、その変化に応ずることはできなかったのである。自然に、人間というものに対する根強い不信感がうまれ、それは自分の内部に深く食い込み、今もって物事の判断の基礎になっている.   (同前)

 と吉村さんは書かれている。これは、吉村さんの文学の底にある視点であり、私にも共通するものである。


 ここまでが引用です。ぼくは昭和12年生まれです。城山三郎/吉村昭/などの10年あとに生まれました。7歳か8歳のときに敗戦です。山陰の山奥では、戦争のことは何にもわかってなかった。ただ都会の方では、多くの子どもは親や身内を失い、食うものもなく、浮浪児として死んだ子も、生きのびた子もいるでしょう。その人たちが84歳になります。
 国民学校に入学し、途中から小学校と名前が変わり、2年生の2学期から教科書に墨を塗り、新聞紙みたいな粗末な教科書が配られ、級長の選挙をさせられました。(それまでは担任の指名でした)みんなで相談したわけではないけど、組で一番成績の低い子に投票が集まり、先生が説教しました。また選挙し、また同じ子が選ばれ、また説教。結局どうなったか忘れました。
 中学の音楽の時間は「君が代」に代わる新しい国民歌「緑の山河」を習い、声高らかに歌いました。道子さんはこの歌に合わせて運動会でダンスをしたといいます。平和と民主主義の時代が到来した感じです。
 そしていま、84歳になって。 ここからのつづきが書けません。同じ世代の人たちに、通じ合う思いがない気がします。
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