老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1380;「死にたい」と言葉にしてはいないのだが・・・・

2020-01-30 07:06:56 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
「死にたい」と言葉にしてはいないのだが・・・・

ブログ1367で、「食べれる」のに「食べなくなった」老人のことを書いた

心臓や肺に水が溜まった92歳の老女は
3週間の入院治療で快復し退院となり家に帰った。

もう自分は「食べれない」と思い込み、
口から食べることを忘れてしまかったのように
食べなくなった。


93歳の誕生日を迎えた。
躰を起こし、躰や腕を支えていけばトイレまで歩いていける力はあるのに
ベッド上で、老女はなすがままにオムツ交換をしてもらっている。

「ベッドサイドテーブルは使わないから」、と息子から話され、テーブルは引き上げた。
座って食べれるのに、寝たままで口から食べるのは、余計飲み込みずらい。

老母が「食べれない」「食べたくない」、と話されたら
その言葉を額面通りに受け取る息子は、
エンシュア・リキッドとOs-1を与えれば
それで栄養は摂れる、勘違いのまま・・・・

喉が通りやすいもの 飲み込みやすいものを紹介するも
本人は依然「食べたい」と気持ちにならず
躰に食べ物が入らないと、力がでないし、生きる意欲も出てこない

1月8日に退院し、まもなく2月の暦になる
口から食べないと、本当に飲み込みができなくなるし
胃も小さくなり、食べ物が入っても胃の働きが機能しなくなってしまう

息子は「胃ろうは造らない」、と話され、自宅で看取りをする、と・・・・。

彼女に「食べたいもの、好きなものを食べたら」と話すも、答えは返って来ない。
眼は窪み、躰や手足の筋力は萎え始め、仰向けのまま寝たきりにある。

どうしたらいいのか
訪問するも無力感に陥り、糸口が見えないまま
生きる主体は老女にあるのだが・・・・
「死にたい」とは発してはいない彼女
生きたいのか、死にたいのか、わからない
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6 コメント

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おはようございます☆ (Ray)
2020-01-30 07:17:46
いま、電車のなかなのですが……

「介護」の世界の難しさ、と、ヒトコトでは くくれない
星光輝さまの苦悩を感じました。

おばあちゃまのお好きなこと・もの は
なんなのでしょう……?

ごはんのことだけでなく、
映画の話、とか、好きだった俳優さん、とか、……なにか、こう……

すみません。
お力になれず、申し訳ない気持ちです。

Ray
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Unknown (グライセン)
2020-01-30 07:32:51
難しいですね。
家族の意向もありますし・・・
どのようにして最後を迎えさせてあげたいか・・・ですよね。まずはご家族の同意が必要です。
今のやり方は私としては賛同できないかな。
食事はしっかり座って食べる・・・それには家族が付き添って楽しい話をしながらでないと無理かも。大事にされている・・・という実感が無いのではないでしょうか。自分は厄介者・・・としか感じていないとしたら・・・そこからすべての行動が始まっていませんか?生きていたい・・・と思えるよう日常にまずはしませんと解決できないように感じました。食べる、食べないはその次・・・大事にして上げて欲しいです。たった一人の母親ですから・・・今しか無いですよ・・・
後で後悔は寂しすぎる・・・偉そうにすみません。
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生きる意欲 (kei)
2020-01-30 13:23:01
よそ様への介入は難しいことです。
人さまをどうにかして差し上げようという思いも容易いことではないことを感じます。
これまで生きてこられた様々なことが関係してこの方の今があるのですよね…。
時間がありませんよね。
母と息子、心が通う刹那があるといいですのにね…。
(傍目でわからないだけであるのかもしれませんが)
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介護の深さ (星光輝)
2020-01-31 03:57:01
Ray san

おはよう~
ブログを媒介に
見ず知らずのおばあちゃんを気にかけて頂くことだけでも感謝の気持ちでいっぱいです。
もう「食べたい」とか
「生きたい」とか
というような気力が失せてしまった状態にあります。

自分も何もできないですが、訪問を「豆に」行い、見守っていくしかないと思っています。

いまは不慣れな長男の介護を受けながら、親子の関係を修復していくときなのかな、と感じています。

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どこまで関わるべきなのか (星光輝)
2020-01-31 04:23:04
グライセン サン

在宅で見送り(看取り)をされる場合、家族の介護力がどこまであるのか、また本人が望んでいる通り、自宅で見送ってあげよう、という想いが求められてきます。
勿論、それを支えていく体制ができているかどうかも不可欠になってきます。

大事にされている、という実感があるかどうか。
そのことはとても大切なことで、そのおばちゃんが過去において息子夫婦との関係はどうであったのか、ということにも関わってきます。そのことはkei sanのコメントにも述べられています。
「食べる、食べないはその次」で、息子が悔いのない介護ができるよう、想いを少しでもかけてあげることができるよう、訪問看護やかかりつけ医と蜜に連携ををとり、息子を支えていく以外にしかないですね。

見送りを通し親子の修復を図っていくことにより、老母も安心して逝けるのかな、と思いました。



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心が通いあう見送りに (星光輝)
2020-01-31 04:29:51
kei san

どこまで関わるのか 悩ましいところです。
深く関わりすぎるべきではない、距離をおくべき、だというケアマネジャーもいます。
「人さまをどうにかして差し上げようという思い」は、難しいことであり、できるものではありません。
親子の絆の太さ、細さは、「これまで生きてこられた様々なことが関係してこの方の今があるのですね」。まったく同感です。
これまでの母親と長男夫婦の軋轢、柵のなかで、
いまの介護に影を落とし、「想い」の深さや介護に対する関わり方にも左右されてきます。

本当に時間が差し迫っています。
親子の会話、息子の想いが少しでも伝わっていければと思っています。
外に出た、次男、長女もいおります。

お話ができるうちに、老母と会う機会をつくれるよう話していきたい、と思います。

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