老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

2000回を迎えた『老い生いの詩(老い楽の詩』

2024-01-09 20:40:34 | 阿呆者
苦悩を背負いながら死に向かって老いを生いきて往く


       朝陽の光に照れされた那須連山の雪景色はピンク色に染まった

今日で拙いブログ 『老い生いの詩(旧 老い楽の詩)』は、2000回目を迎えた。
1回目のブログは、2017年4月9日のことであり、6年9月が経った。
途中何度もブログが絶えながらもこうして再び㍶に向うことができるのは、皆様のお陰です。
ポッチとクリックやコメントの声援、応援 ありがとうございます。
「感謝」「感謝」「感謝」の気持ちです。

脳卒中などの病気で手足はままならず
杖を頼りにふらつきながら歩いている老人。
チョッと前に桜の花を観てきたことも忘れ、
自分は何をしようとしたかもわからなくなった老人。

要介護老人達に囲まれ
我が身の老いと重ね合わせ
在宅介護のなかに垣間見る「老いの風景」を描き
生きること老いること死することの意味を考えてみる。
                 (2017年4月9日)


老いの門をくぐった時であり、齢65歳であった。
どれだけ、「老いるとは」「生きるとは」のテーマを見つめ深めてきたのか。
考えは堂々巡りの7年であった。

あと10年は生きたい、と思うけど「こればっかりはわからない」。
両手の指を折っても足りないほどの疾病はあるけれど
「健康」であること、「歩ける」こと、生活に支障がない程度の軽い「惚け」であればいいかな、と願う。

毎日朝夕、散歩に付き合ってくれるbeagle元気は、今年4月で11歳を数える。
おたがいのためにも、「元気」であらねばと思う。

そして在宅に住む老人を訪ね歩き、
「どこで死にたいか」「どう死にたいか」など、率直に聴いたり話し合ったりしてきた。
老いの辿り着く先は「死」である、と頭でわかっているが、「死」はどんなものであるかはわかっていない。

住み慣れた家で、介護施設で、病院で 死を迎えるのは人それぞれである。
幾多の穏かな死顔に対面できたことは、大きな財産であった(合掌)。
死にきれず悔恨の死顔の老人はふたりおられた。そのときは哀しく辛かったことも忘れられない。

苦悩を背負いながら死に向かって老いを生いきて往く。
死によって苦悩から解放され、穏か安らかに逝きたいものです。







これからも声援のほどよろしくお願いいたします。


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