老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1083;平成30年を振り返る

2019-04-30 04:04:00 | 自分は何者か
お気に入りの5月の風景  田には水が張り湖のように見える。畦道にはハルジョンと菜の花が咲いている
平成30年を振り返る
平成最後の日に想う


平成元年 自分は36歳であった。本当に若かった。
できるものならその齢に帰りたい、と悔やむも無理なこと。

平成元年 自分は老人保健施設の相談指導員の職に就き
老人介護の世界に足を踏み入れたのが始まり。
それまでは身体障害者療護施設の相談員をしていた。
いまは、アマネジャーとして、在宅介護のケアマネジメントを行い、
今日は東奔西走、明日は南奔北走の日々。

あれから30年余経ち、いつの間にか“自分も老い”ていた自分がそこに在った。
髪は黒灰白の三色混じりとなり、目の下は“くま”を「飼っている」。
慢性腎不全症と骨粗鬆症の不治の病があり、左膝からは時折骨の音が聴こえて来る。
平成20年の暑い夏に、腎臓移植を受け第3の人生が始まった。
腎臓を提供してくれた妹と医療スタッフには本当に感謝、感謝、感謝の気持ち。
その恩は死ぬまで忘れてはならない。

正直な話 30年余り老人介護に関わらせて頂き、本当に何をしてきたのか。
これをやり遂げた、つまり、誇れるものは何一つなかった。
この30年間何をしてきたのか、後悔の2文字に尽きる。
本当に「ボ~といきてんじゃね~よ」と自戒したくなる。

それでも、人生の達人である老人たちの後ろ姿や死に至るまでの生き様など
記憶が衰え失っていく老人や手足や躰が不自由な身にある老人から
老いや生きていくそして死ぬことの意味を
介護施設や在宅などを通し、介護の現場から教えられ考えさせられてきた。

自殺した老人に遭遇したことはなかったけど、
風呂場などで事故死した独り暮らし婆さんのことは、切なく遣る瀬無かった。
在宅で手を握り死を看取った爺さん、息を引く音はいまでも耳朶に残っている。
救急車に同乗し、救急外来で深夜までつきあった元社長の爺さんは、いまはもういない。
ヘルパーから水洗トイレが詰まったと電話が入り、
急いで駆け付つけ素手でパットと一緒に糞まで掴み悪戦“糞”闘した。

棺が火葬され、白煙となり青い空へ昇り消えゆくことに “この人は倖せであったのか”
“本当にこの人の気持ちを汲み、どこまでわかりあい、支援できたか”、反省することもしきり。
死の恐怖とは、死そのものよりも、死んだ後、自分の存在が忘れ去られることである。

他人の老人はやさしくできたのに、認知症になった老母親にはやさしくできなかった自分。
いまになり後悔しても母親はもういない。
ケアマネジャー失格の前に“人間失格”の自分

特別養護老人ホームでは、お坊さんを呼び身寄りのない爺さまの葬式をあげたり、
大晦日に老人たちと酒を飲み交わしたこともあった。
老健施設に入浴設備があるのにもかかわらず、爺さまたちを連れ出し銭湯に入り、
風呂上りに飲んだ缶ビールは最高に美味かった。
認知症の爺さまは感激し、翌朝「また行きたい」と話しかけてくる。


自分も老いの門をくぐり、引算の人生となり、残り少ない時間をどう生きるか。
砂時計は老死の如く。
最後に砂時計を180度ひっくり返し、
残り最後の一粒の砂が堕ちた瞬間に “死” は訪れ終焉となる。

老いとその先にある死を意識し始めた自分。
他人の老いと自分の老いを重ね合わせ、死に向かって生きていく令和の時代。

あと5年は “老い”と“障がいを持つ人”とともかかわらせて頂ければと、密かに思っている。
物忘れが出現し認知症の診断を受けたときは、自動車運転免許証を返納し在宅訪問も辞める。

自分自身も、何処で死を臨み どのような死に方(=生き方)をしたいのか
そして死んだ後の遺骨をどうするか
死ぬまでに決めておかねばならない、令和時代における自分自身の宿題でもある。

長い独白となり戯言に、最後までお読み頂きありがとうございます。




    




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