自分は何者か 3 “家族に冷たく 他人にやさしい”
は心とも言われ
は心臓に在る、とそう錯覚している
舞台に上がったとき 心臓はドキドキするし
恋をしているときは 心臓の高鳴りを感じる
ストレスが溜まると胸が痛む
心の持ち様で 心臓は緊張したり、反対に弛緩したりする
や心、気持ちは
心臓ではなく 頭に在る、とわかったのはいつ頃だろうか
頭にきた、という表現は
感情は頭から発信されたものであることを見事に表現している
ここで話は関連しながらも 違う話に移る
夫婦と子ども
夫婦は、血の繋がりはなく「他人」であるが
両親(父母)と子どもは、血の繋がりはあり「親子」である
子はかすがいと言われる
子はかすがいとは、子どもは夫婦の中を繋ぎとめてくれ
夫婦仲が悪くても、子どもへの愛情のおかげで
夫婦の縁を切らずにいれる
子ども大きくなり家をでると、空の棲症候群となり
夫婦関係は冷める
夫が定年になったとき、妻は疎ましくなり
老後の介護に影を落す
私自身、故郷から惚けた老母親を引き取り
私と妻と同居したが1年しかもたなかった
母は43歳のとき、同年齢の夫は病気で亡くなり苦労した
(当時私の年齢は17歳)
老母親は息子を盗られた、と嫁に対抗意識を持つ
惚けているのか意地悪なのか、素直でない姑に苛立つ妻
私はその狭間に立たされ
老母に「冷たい」言葉で叱ったり怒ったりで
やさしくできなかった
他人の老人には耳を傾けやさしく接してきた
妻から自分の親でしょう、と言われ
毎朝仏壇に水、お茶、ご飯などのお供え物を上げる
仏壇の横には父母の遺影があり
母親の顔をみるたびに
「もう少しやさしい言葉をかけてあげれば」、と後悔するも
母親はあの世に居ってしまった。
親孝行は生きているうちにするものだ、いまになって思う
いつまであると思うな「親」と「金」 そんな言葉もあった。
同居していたとき 母は要介護2の状態にあり
週3回の認知症型デイサービスに「出し」
最後は「ロング」ショートステイから老人保健施設入所となった
老人保健施設で急性肺炎となり
救急車で系列の病院へ入院
病室で老母親を見送った(83歳だった)
家族に冷たく、他人にやさしい
(本当に他人にやさしい、のかどうか怪しい)
そんな歪(いびつ)で捻(ひね)くれた私の性格は
子どもの頃からあった。
私のきょうだいは、姉、私、妹の3人
小学生のとき
妹が「くれよん貸して」、と言われても貸さなかったこともあった
学校で、好かん級友から「くれよん貸して」と言われると、抵抗なく貸していた
(子どもの頃から私の心は狭隘で貧しかった)
私の心のなかの「小悪魔」は居心地がよいのか、いまも棲みついている
今回のご文、そっくりそのまま、私のことを言い当てられているような感じがしてしまいました。
大正12年生まれの母親でした。19歳で私を生み 東京から 北陸の山村に定住、知らない土地で 無縁だった百姓となり 大変な苦労を重ねた人でしたが 私は子供の頃から 手嫌っていたところがあります。弟が気に入られていたのも原因かもしれませんが。
2年前亡くなるまでの数年間は、施設に入所する等しており、なんとか 親孝行?を挽回?しよう等という思いも有りましたが 果たして・・・。
人それぞれ、他人には分らない内面が有るものですね。
境涯が似ていますね。どちらも雪国の山村育ち。蝦夷富士(羊蹄山)とニセコアンヌプリ(ニセコ連峰)、昆布岳に囲まれ、大東京は外国と同じく遥か遠く感じた。何せ津軽海峡を連絡船で渡航しないと、内地(本州)の地を踏むことができなかった。
私の母は昭和2年生まれで、同じく無縁だった農家に嫁つぎ苦労した。お産した翌日から田畑の仕事をした。
在宅訪問しながら、ふと老母を想い出すことがある。