老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

復刊 銀の輝き 第53号

2024-02-25 16:59:26 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2040 老いのねがい


        在宅訪問を終えた帰り路 関の里池に白鳥と遭遇 白鳥が寄ってきた

復刊  銀 の 輝 き  第53号  2024年3月1日
 
老人のねがい 

よく老人は「ぽっくり死にたい」と口にします。
それは老人のねがいにも聞こえます。

「寝たきりや痴呆(認知症)だけになりたくないから、ぽっくり死にたい。子どもに迷惑をかけたくない」。
それが老人のねがいだとしたら、寂しい気がしてなりません。

いまや人生百歳の時代になり、
脳卒中(脳血管障害後遺症)や認知症を患い、不自由さを抱えながら懸命に生きておられる老い人たちがいます。
 
老人の手を握り、老人の語る言葉に頷(うなず)き、耳を傾けていきたいと思います。
「いまなにを考えておられるのか」
「死にたいと思っているのか、生きる望みをもっているのか」
「なにを悩んでいるのか」
「なにを欲しているのか」
「なにに戸惑っているのか」等々。

そうした老人の思いに対して、「なにができるのか」。「
忙しい。時間がない」と口にしがちだが、
時間がないのは私ではなく、老人たちなのです。

要介護老人が住む家々を足繫く訪れていきたいと思っています。
            
「死」をどこで
誰に見守れながら
「死」を迎えるか
人生の最後における大きな問題である。
誰もが家族(ひと)の温もりを欲している。
どういう死に方を望んでいるか。
それは どういう老い方をしていきたいか・・・・。



            阿武隈川の辺に苔草と無造作に置かれた石 ジッと春を待つ


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