老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1473;「風景」としての死

2022-03-07 04:44:14 | 生老病死
「風景」としての死

『臨死のまなざし』から教えられたこと(6)最終回


           『臨死のまなざし』195頁

昭和初期までの日本は、病人の部屋があった。
大正昭和に一世を風靡した抒情画家竹久夢二の
デッサン『病むおじいちゃん』が『臨死のまなざし』
でみることができた。

病気で伏しているおじいちゃん
枕許の薬瓶と薬袋
そして病気のおじいちゃんに付き添い
何か声をかけようとする孫娘。

もしかしたら、この伏しているおじいちゃんこそ
竹久夢二だったのではないか・・・・。

こうした『病むおじいちゃん』のような風景は
かつてはどこの家庭でもみられた在宅介護の原風景であった。

昭和30年代からの高度経済成長のなかで
核家族化が進み、家庭の電化普及
(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫は三種の神器と言われた)
教育の過熱やマイホームの所有により、女性就労が増え、
日本の家族風景は一変した。

出産や病人の看護は、排せつや食事の世話、洗濯など、
いちばん大変な仕事でありからだを使う労働であった。
それらは、高度経済成長が進むなかで、出産と死は
在宅から病院に移り変わっていった。家族皆がそろい
見守るなかで「おぎゃあ」と赤ん坊の泣き声や老衰で
亡くなっていくときの生死の体験の機会が日常的にあ
った。

歌人 斎藤茂吉は母の死が近いことを知り、郷里山形へ
帰り、母の蒲団の傍らで添寝をし母の死に寄り添った。

 死に近き母に添寝のしんしんと
 遠田のかはづ天に聞ゆる     (茂吉)


『臨死のまなざし』を読み終え、人の生き方、死に方を
考えさせられた。
「臨死」という言葉は、人が亡くなるまぎわのことをさし、
死に臨むことを意味する。

死に臨むのは、死にゆく当の本人であるが、
同時に、死に臨む人を見送る人も
また、大切な人の「死を臨む」のである。

最後にどんな風景をみるのか
どんなかたちで大切な人を見送るのか

90歳を超え日々躰や脚(足)が弱くなりだしたとき
老人やその家族に尋ねてきた。
「どこで亡くなっていきたいか」
「どう亡くなっていきたいか」

住み慣れた家で死んでいきたい、と話されたときは
本人やその家族(介護者)を真ん中に置きながら
かかりつけ医、訪問看護師、訪問介護員、福祉用具専門相談員、
介護支援専門員などの支援の体制をとっていくことを説明する。

夜間でも夜明けでも「ちょっとした不安や症状の変化があった」
ときは、訪問看護師や介護支援専門員にいつ電話をかけてもいい、と
話をする。

夜間の急変時に電話の指示だけで終える訪問看護事業所もあるが、
夜間でも夜明けでもかけつけてくれる訪問看護事業所を選択する。

家族の見守りのなかで、本人が生きていこう、生きつづけていこうとする、
その気持ちを持ち、ひとりの死にゆく姿をみつめていくことだと思う。

みつめるのはまなざし(眼)であり、どんな視点で死をみつめながら生きてゆくのか。
死は他人事ではなく自分の事でもある。



















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6 コメント

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死に臨む (yasuragi)
2020-03-28 16:36:55
夢二の挿絵、初めて目にしました。昭和(私の時代)ではまだまだこのようだったと思います。
現代でも自宅で死にたいと願う方は多いと思いますが、私も少し前まではそう考えていました。
女性が外で働くのが当たり前となった現代、はて
誰が世話をしてくれるかと、現実問題です。
もう少し歳をとれば施設かな~とか、
最期は病院?? そんな考えも芽生えてきます。
今の若い方や孫たちにとって、死は遠いものになってしまうのでしょうか?
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母の場合 (otomechan)
2020-03-28 16:59:22
最期は家でと言う母の為に、在宅終末医療を受ける事にしました。
病院でケアマネさんと、訪問介護専門の先生と看護婦さんと話し合い契約しました。
在宅介護の為のベッドがその2日後、家に来るので、その午後
退院と決まったのに、喜んでいたのに、母は次の日に亡くなりました。

亡くなるまで2か月間、病院の床に寝泊まりしていた私に妹は
「お母さんはもう十分と思ったのよ。」と言って慰めてくれましたが
連れて帰りたかったです。
少し認知が出ていましたが、最後まで明るい可愛い母でした。

祖父母は家で、父母は病院で看取りました。
私は病院が希望です。
なぜなら私がした介護は子供達には物理的にも精神的にも
無理だと思うからです。
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死の遠近 (星光輝)
2020-03-29 06:04:02
yasuragi sama

こんにち、外で働く女性が増え、
その上少子化もあり、誰が老親の世話(介護)をするのか
悩ましい現実にあること、同じく感じています。
これからは子をあてにすることはできないのかもしれない。
死は誰もが訪れることなのだが、
壮年、青年、子どもと年齢が少なくなるほど
死は遠くにある。
老い病み、自分と同年齢の人が亡くなると
死は近く感じる。
突然の死は困るけど、
齢を嵩ね老いを楽しみながら、
ときどき、ふと死に方を考えてみる
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見送り方 (星光輝)
2020-03-29 06:23:59
otomechan sama

2箇月間も病院の床に寝泊まりをしながら
お母様の見送り(看取り)を なされたこと
本当にお疲れ様でした。
退院が決まり家に帰れる、と喜んだお母様の表情が
思い浮かびます。
最後は家で、という想いは心残りでしょうが、
ベッドの傍で娘さんが見送りを してくれたことは
お母様にとり心のやすらぎのなかで
永眠されたことと思います。
感謝されていることと思います。
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最後・・・・・・。 (kiyasume)
2022-03-07 18:07:18
私の母親はアルツハイマー型認知症で、、
今は施設に居ます。母は恐らく施設か、
病院で亡くなるでしょう・・・・・。

そうでしたよね、、昔は自宅で亡くなりました。
高度成長期に入って、日本が裕福になりだすと、
皆さん病院で亡くなる様になりました。。。

私などの最後はどうなるんだろうと思って
居ますよ。身寄りが誰も居ないから矢張り
病院でしょうね、なんか虚しいですよ・・・。

書き込み有難う御座いました、、
また来ますね。。。。。( ´∀`)
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Unknown (星光輝)
2022-03-10 04:43:43
Kiyasume san
おはようございます
遅咲きの桜のようにコメントが遅れてしまいました。
病院で逝くか、いま棲んでいるところで逝くか
人間最期は一人で死ぬ
死ぬ間際まで誰かとかかわり生きてる
いまを生きましょう
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