バイトをやっていた時期は、お金を得る手段の仕事で
あり、仕事にお金以外の付加価値を求めていませんで
した。バイト先で仲良くなったバイトや社員と、仕事
外で遊んだりはありましたが、仕事自体は、自発的な
仕事ではなく、言われた事をこなすだけでした。
当時はバンドを組んでいて、毎週日曜日にスタジオに
3時間~8時間入っていました。うとうさん、室田さん
マツコウ、僕でやっていました。うとうさんは僕より
年上ですが、凄くピュアで、不器用な生き方しか出来
ず、うだつの上がらない生き方が僕と同じで、ソウル
メイトになりました。お互い、クサイセリフ好きで、
思った事を素直に表現しあえるいい関係でした。うとう
さんとはバンド以外にも、一緒にドライブに行ったり、
食事をしたり、カラオケに行ったり、よく遊びました。
安定したベースの室田さん、超絶技巧ギターのマツコウ
に対して、僕のドラム、うとうさんのボーカルは明ら
かに技量不足でした。でも、この当時のバンドは心底
楽しかったし、バイトの疲れを吹き飛ばしてくれ、毎
週のスタジオ練習が生きがいでした。
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、工場
のあらゆる機械のガシャン・ガシャン・ガシャンや、
シューシューシューや、ドンドンドンという、音が
一定のリズムで合わり、リズムマシーンを聴いている
気分になり、メロディのインスピレーションが湧いて
きていました。工場のライン作業は慣れれば、頭で
別の事を考えたり、ラインの横の人と雑談をしてい
てもミスなんてそうそう起きません。なので、工場勤務
中は仕事以外に作曲の時間でした。
帰宅するとMTRで思いついたメロディを録音するのが
日課になっていました。
工場の忙しい時期のみ雇う3ヶ月契約などのバイトをよく
していたので、職場は一定周期で転々としていました。
遠い時は、南区のアパートから古賀町まで通勤していました。
原付で往復2時間の道のりでしたが、通勤中に食べるラーメン
が日々の楽しみでした。1日3軒ぐらいを毎日食べ、通勤路に
ラーメンの看板があれば、とりあえず入っていました。古賀に
行っていた時は「赤のれん」「一蘭」(東区店は今、閉店かな)
「はかた屋」「小太郎」「金龍」「おっしょいラーメン」
「豊久ラーメン」「一楽」「名島亭」「味好」「元祖ラーメン亭」
「かしい亭」などに行っていました。
七隈方面の仕事の際は「一代」「味平」「あもい」「さつまラーメン」
「筑後屋」「長寿ラーメン」「冨ちゃん」「永楽」「トラ屋」
「金龍」「ふくちゃん」あたりによく行きました。
空港あたりで働いた時は「魁龍」「ラーメンスタジアム」
「一風堂」「福一」「住吉亭」とか行きました。
食べれば食べるほど奥が深く、どんどんラーメンの魅力に
魅了されだしました。ラーメン食べまくり1年後ぐらいから
ノートに僕の評価を書き出しました。
最初はノートに味の感想を書く程度でしたが、接客態度、
客席数、店内の雰囲気など気に成る事は何でも書きとめ
ていました。今風に言うとラヲタでした。
友達やバイト先の人が、僕が知らないラーメンについて
喋っていると、すぐさまその店を探しに行っていました。
当時は何を目指し、何をしたかったのか分かりませんが、
ラーメンに関する知識だけは友人間では負けたくあり
ませんでした。
その当時は、給料から家賃、光熱費を差し引いた全て
ラーメンに注ぎ込んでいました。ラーメンに関するガイド
ブックは福岡に限らず、東京の店を紹介した物なども買い
ました。また、ラーメンコミック、ラーメンエッセイなど
買い、暖簾や、どんぶり、ノボリまで買い、ラーメンのイ
ラストがプリントされたダサダサのTシャツまで持って
いました。携帯のストラップはラーメン、待ち受け画面は
ラーメン、着メロはチャルメラでした。
音楽が生きがいだった僕が、音楽を超える物に出会った
時期です。そうなると、スタジオ使用料や、CD、ステ
ィックに消費するより、ラーメンを食べ歩く方を優先
するようになってきます。
今振り返ると、あの時期はラーメンノイローゼでした。
初めてディープ・パープルを聴いたときと同じ興奮状態
だったのかもしれないです。
テレビではガチンコラーメン道があっていて、ラーメン
スタジアムが福岡に出来、僕のラーメン熱は上がる一方
でした。
しだいに、ラーメンがどのように出来ているのかとの
興味が増し、ラーメン屋で働く事にしました。
それまで、仕事に対して「生きる手段」と割り切って
諦めていた僕が、仕事で興奮の連続になりました。
それまで、客席から厨房を見る立場だったのに、厨房
から客席を見る立場になりました。
調理に興奮し、仕込みに興奮でした。自分が携わって
作った麺、スープ、チャーシューを昼休みに食べる
充実感は言葉じゃ言い表せません。
でも、昼時のピーク時はチャーハン専属でした。
チャーハンセットが650円と格安だったことも
あり、お客さんの半分以上はセットを注文しました。
火力が強力だったので、3人前ぐらいは30秒弱で
作れました。チャーハンは5分ぐらい口頭で教えて
もらっただけで、時々店長が味見をし「うん。よし」
と言うぐらいで、店の味をちゃんと再現できていた
かは分かりません。
ラーメン屋勤務と言っても、専属店員が3人いて
僕は昼時2時間や、仕込みが忙しい時の助っ人で
1日の大半は製麺、梱包、配達でした。
製麺作業は楽しかったものの、梱包は面白くも
何ともなかったです。でも、配達は好きでした。
1人で車で市内を配達して(箱入りラーメンが
本業の会社です)時間に余裕があれば、少し
さぼってラーメンを食べに行っていました。
次回は、ちょっと調子に乗って、色々会社に
意見をするようになる僕について書きます。
あり、仕事にお金以外の付加価値を求めていませんで
した。バイト先で仲良くなったバイトや社員と、仕事
外で遊んだりはありましたが、仕事自体は、自発的な
仕事ではなく、言われた事をこなすだけでした。
当時はバンドを組んでいて、毎週日曜日にスタジオに
3時間~8時間入っていました。うとうさん、室田さん
マツコウ、僕でやっていました。うとうさんは僕より
年上ですが、凄くピュアで、不器用な生き方しか出来
ず、うだつの上がらない生き方が僕と同じで、ソウル
メイトになりました。お互い、クサイセリフ好きで、
思った事を素直に表現しあえるいい関係でした。うとう
さんとはバンド以外にも、一緒にドライブに行ったり、
食事をしたり、カラオケに行ったり、よく遊びました。
安定したベースの室田さん、超絶技巧ギターのマツコウ
に対して、僕のドラム、うとうさんのボーカルは明ら
かに技量不足でした。でも、この当時のバンドは心底
楽しかったし、バイトの疲れを吹き飛ばしてくれ、毎
週のスタジオ練習が生きがいでした。
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、工場
のあらゆる機械のガシャン・ガシャン・ガシャンや、
シューシューシューや、ドンドンドンという、音が
一定のリズムで合わり、リズムマシーンを聴いている
気分になり、メロディのインスピレーションが湧いて
きていました。工場のライン作業は慣れれば、頭で
別の事を考えたり、ラインの横の人と雑談をしてい
てもミスなんてそうそう起きません。なので、工場勤務
中は仕事以外に作曲の時間でした。
帰宅するとMTRで思いついたメロディを録音するのが
日課になっていました。
工場の忙しい時期のみ雇う3ヶ月契約などのバイトをよく
していたので、職場は一定周期で転々としていました。
遠い時は、南区のアパートから古賀町まで通勤していました。
原付で往復2時間の道のりでしたが、通勤中に食べるラーメン
が日々の楽しみでした。1日3軒ぐらいを毎日食べ、通勤路に
ラーメンの看板があれば、とりあえず入っていました。古賀に
行っていた時は「赤のれん」「一蘭」(東区店は今、閉店かな)
「はかた屋」「小太郎」「金龍」「おっしょいラーメン」
「豊久ラーメン」「一楽」「名島亭」「味好」「元祖ラーメン亭」
「かしい亭」などに行っていました。
七隈方面の仕事の際は「一代」「味平」「あもい」「さつまラーメン」
「筑後屋」「長寿ラーメン」「冨ちゃん」「永楽」「トラ屋」
「金龍」「ふくちゃん」あたりによく行きました。
空港あたりで働いた時は「魁龍」「ラーメンスタジアム」
「一風堂」「福一」「住吉亭」とか行きました。
食べれば食べるほど奥が深く、どんどんラーメンの魅力に
魅了されだしました。ラーメン食べまくり1年後ぐらいから
ノートに僕の評価を書き出しました。
最初はノートに味の感想を書く程度でしたが、接客態度、
客席数、店内の雰囲気など気に成る事は何でも書きとめ
ていました。今風に言うとラヲタでした。
友達やバイト先の人が、僕が知らないラーメンについて
喋っていると、すぐさまその店を探しに行っていました。
当時は何を目指し、何をしたかったのか分かりませんが、
ラーメンに関する知識だけは友人間では負けたくあり
ませんでした。
その当時は、給料から家賃、光熱費を差し引いた全て
ラーメンに注ぎ込んでいました。ラーメンに関するガイド
ブックは福岡に限らず、東京の店を紹介した物なども買い
ました。また、ラーメンコミック、ラーメンエッセイなど
買い、暖簾や、どんぶり、ノボリまで買い、ラーメンのイ
ラストがプリントされたダサダサのTシャツまで持って
いました。携帯のストラップはラーメン、待ち受け画面は
ラーメン、着メロはチャルメラでした。
音楽が生きがいだった僕が、音楽を超える物に出会った
時期です。そうなると、スタジオ使用料や、CD、ステ
ィックに消費するより、ラーメンを食べ歩く方を優先
するようになってきます。
今振り返ると、あの時期はラーメンノイローゼでした。
初めてディープ・パープルを聴いたときと同じ興奮状態
だったのかもしれないです。
テレビではガチンコラーメン道があっていて、ラーメン
スタジアムが福岡に出来、僕のラーメン熱は上がる一方
でした。
しだいに、ラーメンがどのように出来ているのかとの
興味が増し、ラーメン屋で働く事にしました。
それまで、仕事に対して「生きる手段」と割り切って
諦めていた僕が、仕事で興奮の連続になりました。
それまで、客席から厨房を見る立場だったのに、厨房
から客席を見る立場になりました。
調理に興奮し、仕込みに興奮でした。自分が携わって
作った麺、スープ、チャーシューを昼休みに食べる
充実感は言葉じゃ言い表せません。
でも、昼時のピーク時はチャーハン専属でした。
チャーハンセットが650円と格安だったことも
あり、お客さんの半分以上はセットを注文しました。
火力が強力だったので、3人前ぐらいは30秒弱で
作れました。チャーハンは5分ぐらい口頭で教えて
もらっただけで、時々店長が味見をし「うん。よし」
と言うぐらいで、店の味をちゃんと再現できていた
かは分かりません。
ラーメン屋勤務と言っても、専属店員が3人いて
僕は昼時2時間や、仕込みが忙しい時の助っ人で
1日の大半は製麺、梱包、配達でした。
製麺作業は楽しかったものの、梱包は面白くも
何ともなかったです。でも、配達は好きでした。
1人で車で市内を配達して(箱入りラーメンが
本業の会社です)時間に余裕があれば、少し
さぼってラーメンを食べに行っていました。
次回は、ちょっと調子に乗って、色々会社に
意見をするようになる僕について書きます。