前回、福岡のラーメン屋で働き、やっと自分の
居場所を見つけた話をしましたが、今回は僕の
中で徐々に心境が変化していった事について
書きます。
ラーメン屋でチャーハンを作ったり、ラーメンを
作る仕事は好きでしたが、僕は製麺の担当者で
あり、ラーメン屋勤務は助っ人程度でした。
部長や店長や先輩などとラーメンについて世間話
をしていると、周囲の従業員がさほどラーメンに
興味を持っていない事が分かってきました。
10軒未満のラーメン屋しか知らない人が店長を
やっている事に何か違和感を感じ、社員の殆どが
ラーメンに関する情報の乏しさを感じました。
部長が「君はラーメンを色々調べているみたいだ
から、レポートにまとめ提出してくれ。何か参考
になるかもしれない」と言われ、帰宅したら毎日
寝るまでレポート作成をしました。
僕が知る限りの情報を惜しみなく書いたり、書籍
の重点を書き出す事で、僕自身の勉強にも成り
ました。
週に3回ほどで、1回にレポート用紙10枚ぐらい
づつを提出しつづけていました。
日常業務以外に、僕の作業により、店が変わるかも
しれないと、革命児的な使命感で書き続けました。
レポートを書き続ける事で、情報がガンガン頭に
入り、部長も一目置いてくれるようになり、社長も
顔を合わせる度に褒めてくれ、色々質問を受けるよ
うになりました。
いつの間にか、ラーメン試食も僕の仕事に成りまし
た。夏メニューや、味を少し変化させた際は、タダ
で試食し感想をレポートにまとめました。
でも、僕の率直で主観的でしかない感想など何の影響
力もなく、僕がレポートや直接、イマイチという感想
を言った所で、開発者が腹を立てるだけで、改良も
無くそのままメニュー化されていました。
新入社員の僕が、知ったかぶりで色々な情報を会社
に教えたり、ベテラン調理人が作った物に素人の
僕がケチを付ける事に、店長達は面白くなかった
ようです。
当時の僕はただのラヲタで、趣味でラーメンを食べ、
気まぐれでラーメン会社に入ったにすぎませんでした。
0からラーメンを作る能力など全然無かったです。
なので、ラーメンに関する情報より、ラーメンを
作る技術、知識を身に付けるべく、独学を始め
ました。
部長からは「最近はレポートを出さんけど、もう
ネタ切れ?」などと言われましたが、僕「そういう
ただの情報先行のマニアは卒業し、ラーメン職人
になりたいので、今はその研究をしています」
と言い、義務的になっていたレポートから解放
され、ラーメン製法について勉強しだしました。
起きている時間全てが「ラーメン」になった僕
にとって、毎週のバンドのスタジオ練習は苦痛
になっていました。ミスター・ビックのライブ
で、ビリー・シーンを間近で見て以来ベースの
方に夢中になり、ちょっと息抜きに楽器を弾く
ときはベースばかりでした。楽譜を見て、ドラ
ムを練習する気なんてさらさら無い状況でした。
もう、ドラムへの情熱が消えていました。しか
も、ソウルメイトのうとうさんはバンドから
解雇され、プロ意識の強い岩崎くんが加入した
事によりますます僕の居場所は無くなり、
親不孝通りのライブハウスでのライブを最後に
脱退しました。
ドラムやバンドから解放された僕は、もう打ち
込む物はラーメンだけに成りました。
テレビも見れないように「テレビ禁止」と張り
紙をして、ひたすらラーメン製法を調べました。
「今日ぐらいは息抜きしよう」と、ビリーシーン
のインタビュービデオを見ていると、「100回
のリハーサルをするより、1回のライヴから得る
物の方が大きい。練習に明け暮れるより、下手でも
とりあえずライヴを経験すれば、多くのものが得られる」
という言葉に刺激を受け、とりあえず自作ラーメンを
作ってみる事にしました。
以前も、中華料理を作る際に、手羽先、手羽元の骨で
トリガラスープを作った事はあったので、その要領で
出汁をとり、その出汁にチャーシュー用のブロック
肉を煮て、僕の処女ラーメンは出来ました。
元ダレは適当に醤油、酒、みりん、塩と、
チャーシューの味付けをした醤油、酒、はちみつのタレ
をブレンドしました。
麺は会社で作っているのを、7種類ほど社員割引で
買いってきました。
あっさりしすぎて、物足りない弱々しい味で
満足いくものじゃなかったです。
次回は、自作ラーメンに目覚め、毎週土曜日
は不眠でラーメンを作るように成っていきます。
居場所を見つけた話をしましたが、今回は僕の
中で徐々に心境が変化していった事について
書きます。
ラーメン屋でチャーハンを作ったり、ラーメンを
作る仕事は好きでしたが、僕は製麺の担当者で
あり、ラーメン屋勤務は助っ人程度でした。
部長や店長や先輩などとラーメンについて世間話
をしていると、周囲の従業員がさほどラーメンに
興味を持っていない事が分かってきました。
10軒未満のラーメン屋しか知らない人が店長を
やっている事に何か違和感を感じ、社員の殆どが
ラーメンに関する情報の乏しさを感じました。
部長が「君はラーメンを色々調べているみたいだ
から、レポートにまとめ提出してくれ。何か参考
になるかもしれない」と言われ、帰宅したら毎日
寝るまでレポート作成をしました。
僕が知る限りの情報を惜しみなく書いたり、書籍
の重点を書き出す事で、僕自身の勉強にも成り
ました。
週に3回ほどで、1回にレポート用紙10枚ぐらい
づつを提出しつづけていました。
日常業務以外に、僕の作業により、店が変わるかも
しれないと、革命児的な使命感で書き続けました。
レポートを書き続ける事で、情報がガンガン頭に
入り、部長も一目置いてくれるようになり、社長も
顔を合わせる度に褒めてくれ、色々質問を受けるよ
うになりました。
いつの間にか、ラーメン試食も僕の仕事に成りまし
た。夏メニューや、味を少し変化させた際は、タダ
で試食し感想をレポートにまとめました。
でも、僕の率直で主観的でしかない感想など何の影響
力もなく、僕がレポートや直接、イマイチという感想
を言った所で、開発者が腹を立てるだけで、改良も
無くそのままメニュー化されていました。
新入社員の僕が、知ったかぶりで色々な情報を会社
に教えたり、ベテラン調理人が作った物に素人の
僕がケチを付ける事に、店長達は面白くなかった
ようです。
当時の僕はただのラヲタで、趣味でラーメンを食べ、
気まぐれでラーメン会社に入ったにすぎませんでした。
0からラーメンを作る能力など全然無かったです。
なので、ラーメンに関する情報より、ラーメンを
作る技術、知識を身に付けるべく、独学を始め
ました。
部長からは「最近はレポートを出さんけど、もう
ネタ切れ?」などと言われましたが、僕「そういう
ただの情報先行のマニアは卒業し、ラーメン職人
になりたいので、今はその研究をしています」
と言い、義務的になっていたレポートから解放
され、ラーメン製法について勉強しだしました。
起きている時間全てが「ラーメン」になった僕
にとって、毎週のバンドのスタジオ練習は苦痛
になっていました。ミスター・ビックのライブ
で、ビリー・シーンを間近で見て以来ベースの
方に夢中になり、ちょっと息抜きに楽器を弾く
ときはベースばかりでした。楽譜を見て、ドラ
ムを練習する気なんてさらさら無い状況でした。
もう、ドラムへの情熱が消えていました。しか
も、ソウルメイトのうとうさんはバンドから
解雇され、プロ意識の強い岩崎くんが加入した
事によりますます僕の居場所は無くなり、
親不孝通りのライブハウスでのライブを最後に
脱退しました。
ドラムやバンドから解放された僕は、もう打ち
込む物はラーメンだけに成りました。
テレビも見れないように「テレビ禁止」と張り
紙をして、ひたすらラーメン製法を調べました。
「今日ぐらいは息抜きしよう」と、ビリーシーン
のインタビュービデオを見ていると、「100回
のリハーサルをするより、1回のライヴから得る
物の方が大きい。練習に明け暮れるより、下手でも
とりあえずライヴを経験すれば、多くのものが得られる」
という言葉に刺激を受け、とりあえず自作ラーメンを
作ってみる事にしました。
以前も、中華料理を作る際に、手羽先、手羽元の骨で
トリガラスープを作った事はあったので、その要領で
出汁をとり、その出汁にチャーシュー用のブロック
肉を煮て、僕の処女ラーメンは出来ました。
元ダレは適当に醤油、酒、みりん、塩と、
チャーシューの味付けをした醤油、酒、はちみつのタレ
をブレンドしました。
麺は会社で作っているのを、7種類ほど社員割引で
買いってきました。
あっさりしすぎて、物足りない弱々しい味で
満足いくものじゃなかったです。
次回は、自作ラーメンに目覚め、毎週土曜日
は不眠でラーメンを作るように成っていきます。