蒲生町役場の裏手に蒲生麓の成立と武家門に関する興味深い解説板がある。
解説によると、まず、領主蒲生氏が島津氏に敗れ、一部の家臣団とともに宮之城へ退去し、残る家臣団は当地に百姓となって居住した。戦に負けると家臣全員を扶養できないので一部はやむなく百姓になって自給したのだろうか。武家門が今日39棟も残っているとある。まだ紹介していない武家門がありそう。
蒲生町役場の敷地内にある地頭仮屋門。前方は八幡馬場
解説によると、武家門建立を許されたのは10石以上の家。10~49石までは屋根が一つで引き合わせ戸。50石を越すと両脇に小屋根が付き、観音扉となり、不浄門を設ける。100石を越すと鋲が女の乳の形となってくる。鋲が「女の乳の形」になっているというのは、想像はすれども想像が付かないというなんとも不思議な記述なので、一見は百聞にしかずのとおり役場にある地頭仮屋門をまず観察してみた。
観音扉の鋲をみると、まさしく「女性の乳の形」をしている。なるほどこれかと納得する
ほかの武家門はどうなっているだろうといくつかの武家門に当りを付けて観察してみた。八幡馬場に面する今にも崩れそうな武家門。蒲生殖産興業株式会社(旧士族共有社というサムライ会社であった)の敷地内にある。こちらの武家門も扉に乳の形をした鋲を打っている。乳鋲というらしい。立派な観音扉である。この門は存在自体が貴重なんだろうけどなあ
下馬場の武家門。古い門と思ったら蒲生麓で現存する最も古い武家門らしい。1816年建立
こちらも約束とおり観音扉に乳鋲が打ってある。100石を超す郷士に許された武家門の証である
ほかの麓では確認していないが、蒲生麓には100石以上の石高の郷士に許された貴重な武家門が少なくとも2棟、地頭仮屋門も入れると3棟も現存していることが分かった。貴重な文化的遺産と思うし、早く市や県の文化財に指定して欲しいものだ。今回は薩摩の武家門について勉強ができた。他の麓でも同じような決まり事があるのだろうか。