古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆畿内環状ルート

2016年12月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 仁徳天皇の后に葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)がいる。あるとき天皇は、皇后が紀国の熊野岬に出かけた隙に八田皇女(やたのひめみこ)を娶って宮中に召し入れた。皇后はそれを知って嫉妬し、難波の堀江まで戻っていたが宮(難波高津宮)に帰らなかった。 天皇は自ら難波の大津に出向いて皇后の船を待っていたが皇后は大津に泊まらず、さらに川を遡って山背を巡って大和に向かった。那羅山を越えて葛城を望んで「つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我家のあたり(難波の宮を過ぎて山代川を上り、私が登っていくと、奈良を過ぎて小楯と倭を過ぎて私が見たかった葛城の高宮の我家の辺りです)」と歌を詠んだ。皇后は山背に帰って筒城岡(つつきのおか)の南に宮を作って住んだという。 
 この話の内容はさておき、磐之媛が辿ったルートを取り上げると「熊野→難波→山背→那羅山→山背」となる。熊野から難波は神武東征とは逆のルートであり、難波からは淀川、木津川を遡って現在の木津川市あたりで船を降りて徒歩で少し南下すると平城山(ならやま)へ至る。そこで歌を詠んで再び山背へ引き返した。また実際に通過はしていないが、歌の中で奈良から小楯、倭を過ぎると葛城の我が家が見えるとあることから、少し標高の高い「山の辺の道」を歩くことを想定した情景であると思われる。そうすると葛城を起点として「葛城→風の森峠→紀ノ川→紀伊水道→大阪湾→河内湖→難波→淀川→木津川→山城→平城山→奈良→山の辺の道→葛城」という古代の畿内環状ルートが浮かび上がる。しかもこれは葛城出身の磐之媛が実際に通った、あるいは通ることを想定したルートであることから、葛城氏がこの環状ルートを押さえていたと考えることができる。紀ノ川から紀伊水道を経て大阪湾へ至る水路は先に見た葛城から朝鮮半島へのルートと同じで、ここは紀氏が押さえていた。淀川、木津川はどうであったろうか。

 大阪府茨木市、淀川と並行する安威川の近くに溝杭神社がある。主祭神は玉櫛媛命、すなわち事代主神が鰐に化けて通っていた三島溝杭の娘である。また、溝杭神社からすぐ近くの淀川沿いには三島鴨神社があり、大山祇神と事代主神が祀られている。大山祇神はもちろん瀬戸内海大三島の大山積神社に祀られる神である。一説によれば大三島よりもこちらのほうが先に創建されたとも言われている。さらにこの2つの神社から少し北には大山積を祀った鴨神社がある。このようにこの三島地区一帯に鴨氏の存在が認められる。またそれが瀬戸内海の大三島とつながっていることも重要である。
 木津川周辺を見ると、現在でも山城町として山背の地名が残り、また隣接する加茂町には岡田鴨神社があり、鴨氏の祖である鴨建角身命を祀っている。山城国風土記逸文には、鴨建角身命は神武天皇を先導したあと大倭の葛木山に宿り、しばらくのちに山代国の岡田の賀茂に至り、その後に山代川を下って葛野川と賀茂川が合流する所に至った、とある。ここ木津川沿いにも鴨氏がいたのである。以上のように、淀川・木津川ルートは鴨氏が押さえていたことがわかる。葛城氏は紀氏と鴨氏を統率することによって隼人系海洋族とも関係を構築し、瀬戸内海から朝鮮半島へのルートおよび畿内環状ルートの運営を握っていたと考えられる。

 和歌山県有田郡に吉備町と言う町があった。町村合併により現在は有田郡有田川町となっているが、古くは和名類聚抄が記す紀伊国在田郡吉備郷である。この町は吉備国の吉備海部と呼ばれた海人たちが移り住んだのでこの名を持つ。また、少し北の和歌山市から海南市にかけての沿岸地域には明治22年に廃止されるまで海部郡があった。前述の仁徳天皇と八田皇女の話では磐之媛が紀国の熊野岬まで出かけたと記されていた。紀伊半島の西沿岸は吉備一族と関係の深い紀氏の勢力範囲であったからこそ、紀氏を統率する葛城氏の娘である磐之媛は熊野まで遊行することができたのである。時代は遡るが、神武天皇も同様に隼人系海洋族の拠点がこの紀伊半島の各地にあったからこそ熊野への迂回を判断したのではないだろうか。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆葛城氏の考察 | トップ | ◆葛城氏の盛衰 »

コメントを投稿

古代日本国成立の物語(第一部)」カテゴリの最新記事