メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

2009-01-12 21:52:09 | 映画
「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」 (Indiana Jones and The Kingdom of The Crystal Skull 、2008米、124分)
監督:スティーヴン・スピルバーグ、原案:ジョージ・ルーカス、フィリップ・カウフマン、脚本:デヴィッド・コープ、音楽:ジョン・ウィリアムス
ハリソン・フォード、シャイア・ラブーフ、レイ・ウィンストン、カレン・アレン、ケイト・ブランシェット、ジョン・ハート
 
シリーズ第4弾、19年ぶりとかで、ハリソン・フォード大丈夫かな、と心配したが、それなりの歳の役にはなっている。それはいいのだがアクション場面は年齢忘れて見るしかない。そしてそれはますますCGだのみになっているけれども、第一作からのおきまり考古学分野のおどろおどろしい世界だから、すぐに約束事も無意識になってしまい、まずまず楽しめる。
役者では主人公のほかに、ジュニア役シャイア・ラブーフ、そしてKGBチーム女性首領役ケイト・ブランシェットが見もので、特に後者はハリソン・フォードと張り合って充分である。
 
それ以上は批評してもしようがない一方で、これが1957年ころの設定、赤狩り、ネヴァダ核実験場、その一方でアメリカが一番輝いていたであろう時代の大学風景や風俗、そういったところは丁寧に出来ている。
例えばジュニアがいつも気にするリーゼント・ヘア、それを撫で付けるしぐさに、今のシニア世代ならこの時期はじまったTVドラマ「サンセット77」のクーキー(エド・バーンズ)を思い起こす人も多いだろう。

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告白 (湊かなえ)

2009-01-10 18:09:03 | 本と雑誌
「告白」(湊かなえ 著)(双葉社)
昨年のベストセラーの一つ、特に国内ミステリーではだんとつの評判と売れ行きだったらしい。
 
描いている世界が、いやというほど報道される少年少女(この小説では中学生)のいじめ、家庭内暴力、結果としてそうなる様々な事情などであり、そこで犯行が明かされているようで、どうして?という問いかけが読者から続いて出てくるように、うまく出来ている。
 
小説としての成功のわけを考えてみると、六つの章それぞれが事件にかかわる五人の一人称形で書かれている、つまりスピーチ、手紙、日記などであるということだろうか。全体が一人称、あるいは作者の視点で三人称というのが普通だが、こういう構成は記憶がない。
それが、単調にならない、視点がかたよらない、それでいて部分部分に真実味というか熱が温度が与えられている作品を成立させた、ということだろう。
  
そしてヒューマニスティックな終わり方でないのは納得できるが、読み終わった後の感じは、実はあまりよくない。これだけの素材を扱えば、その結末、カタルシスは簡単ではないが、少なくとももう一つ処罰がなければ終わらないはずである。
 
小説の中にドストエフスキーの名前が出てくるように、そういう世界、例えば宗教(神)、精神の病というよりはもっと強烈な悪、性、娼婦、というような要素でもなければ、結末は作れないのかもしれない。
 
それは作者もわかっているのか、各章には聖職者、殉教者というような、宗教者の名前が与えられている。

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新人画会展 (板橋区立美術館)

2009-01-07 22:14:15 | 美術
新人画会展 戦時下の画家たち-絵があるから生きている」(板橋区立美術館、2008年11月22日~2009年1月12日)
靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介
 
1943年にこの8人で結成、展覧会を3回開催した新人画会について、集められるだけのものを集め、資料にそって当時のもようを再現しようという展覧会であるから、昭和の洋画が好きなものにとっては見逃せない。
1時間以上電車を乗りつぎ、西高島平から歩いて15分という不便なとところにある美術館にわざわざ出かけたのも、そういうわけであった。
 
平日だったが、絵が好きそうな年配の人たちがさびしくない程度に来ていて、その中でゆったりと「いい絵」を堪能できた。
 
「いい絵」というのは、8人の中で靉光、松本竣介は好きになってからかなり経ち、またその回顧展をはじめ、親しんだ絵はかなり多く、また麻生三郎も見たものは少ないとはいえもっと見てみたいと思っていた、そういう事情があって楽しみたいという気持ちから、入れるからである。
 
1943年だから、当然のことながら軍部との関係に気を使う活動にはなるのだが、そういう中で追従でもなく、明確な抵抗でもなく、それでいて今日まで絵として残ってみると、人の外に出たもののもつ力、見るものがそれに応じて引き出されるもの、その不思議、魅力にあらためて気づかされる。
 
靉光は、あまり会にかかわったという感じがしないが、それでも彼の静物画の本当に死んでいる対象物、無機的な描写、それらが反対に、失われたものを見るものに喚起する。
 
松本竣介は、音がしない世界が多いのだが、それがやはりそこから剥ぎ取られた生き生きした世界を見るものの中において、どちらを取るというのでなく、見せる。絵は本当にうまい。
 
麻生三郎は、見た瞬間に「いい絵だな」と文句なく感じる、というよりほかない。松本竣介に青、緑が多いのに比べ麻生は赤が多い。その使いこなしは日本でも傑出しているのではないか。ほかでは鶴岡政男の才人ぶりが印象的である。
終戦後まもなく没した靉光、松本の他の6人は比較的長く生きた。これは洋画壇にとって幸運だっただろう。
 
ところで、展覧会後に行方不明になり、今回やっと一般公開されるものが何点かあるようで、そのなかの一つが松本竣介「りんご」(小野画廊 蔵)である。
このりんごをもった子供を描いた小さな絵、どこかで見たはずだが勘違いか、と思っていたが、帰宅後、あることを調べていて偶然わかった。
 
今回も展示されている松本竣介の「立てる像」はなじみのある大きな絵である一方、この画家を知るきっかけになった洲之内徹「気まぐれ美術館」で、著者がこの画家を好きなこと一方ならぬものがあるのにこの「立てる像」そして「画家の像」などについては、その思想的ともとれる押しつけがましさがきらいであると言っている文章を確かめようとして、本棚から取り出したら、なんとその文庫本カバーの口絵がこれだったのだ。 
 
ただし、これはモノクロで、よく見ると本当に今回見た「りんご」のモノクロ写真か、というと、どうもそのためのデッサンのようにも見える。今調べる手段がないのだが、おそらく画商をやっていた洲之内はこのデッサンを少なくとも一時期は手元に置いていて、その写真をこの本(新潮文庫)のもとの単行本あたりで使ったのではないだろうか。
 
関係ありそうな絵、展覧会を追いかけているとこういうことがあるからおもしろい。
 
ところでその「立てる像」であるけれども、今回良く見ると、その画家の着ている今のジーンズ風つなぎ、特にボタンとステッチ、履いているサンダル、そして背景、全て和でないのである。西洋かぶれといってもよい。あの時代に。これに意味があるのかどうか、わからないが。

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セザンヌ主義 (横浜美術館)

2009-01-06 21:30:42 | 美術
セザンヌ主義  父と呼ばれる画家への礼賛 ピカソ・ゴーギャン・マティス・モディリアーニ」 (横浜美術館 2008年11月15日~2009年1月25日)
 
展覧会の副題にあるように、ポール・セザンヌ(1839-1906) およびセザンヌに影響を受けた内外の画家たちの作品を、女性肖像、男性肖像、水浴、風景画、静物画などに分類して展示したものである。
 
セザンヌへのオマージュが主であり、セザンヌの作品そのものは自画像、セザンヌ婦人、静物の一部をのぞくと、わざわざ出かけて見るほどでもないのが残念である。例えば、サント=ヴィクトワール山はカルダンヌから見たもので、通常のエクス・アン・プロヴァンスから見たものとはことなり台形状になっている。
 
今回のラインナップはほとんど国内にあるものを集めているのだから、ヴィクトワール山もこの横浜美術館のもの以外に例えばブリヂストンから借りてくれば、セザンヌ見たさにここを訪れる人たちがもう少し満足しただろう。
 
他の画家ではモディリアーニ、ブラック、ピカソなどのほか、日本の画家では安井曾太郎、岸田劉生、佐伯祐三、小野竹喬、小出楢重、中村彝などある中で、これまで名前くらいしか知らなかった森田恒友、川口軌外の二人にいい絵があった。これは収穫。
 
全体として、セザンヌ単独展覧会なみの入場料を払うなら、ブリヂストン美術館の常設展に行けば充分である。今回のストーリーがどこかに記録されているか、またはこれに近いものを所蔵品の組み合わせで(これは可能なはず)やってくれれば、なおさらいい。

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