メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

グルダのバッハ

2009-01-23 10:30:18 | 音楽一般
フリードリッヒ・グルダ「バッハ・アーカイヴ」 (DG)
 
輸入盤タイトルは「Gulda Plays Bach」である。モーツアルトの時も国内盤ではアーカイヴという単語を使ったが、これはおかしい。
アーカイヴというからには、かなりの量のストック、それも版権などを横断したものが定義されていてその全体を指すか、最低限それから選出したものという背景がなければならない。
 
それはさておき、フリードリッヒ・グルダ(1930-2000)が1955年から1969年にライヴ、またはプライヴェートで録音したものが探し出され、息子パウルによってリマスター、リリースされたのはうれしい。
平均律Ⅰ・Ⅱ全曲(フィリップス)を聴いても、バッハは得意なはずだが、そのほかにまとまったものがないのは不思議であった。
 
イギリス組曲第2番、第3番、イタリア協奏曲、ハ短調のトッカータ、旅立つ最愛の兄に寄せる奇想曲、そして自作というLPなら2枚分は、コンサートとしても成り立つだろう。
 
こうしてきくと、グルダのスタイルはベートーヴェンのピアノソナタ全曲のときとかわらない。バッハの方が録音は先だが、それはあまり関係ないだろう。練習し、譜面を読み込み、解釈を確立して演奏を披露する、それがまったくないわけではないだろうが、それよりも楽譜を見て弾き流していくうちに出てくるもの、それをその瞬間瞬間に感じ取りながら、もちろん時間的な前後、音空間の中で吸収しながら、それを前進のパワーとしていく、その快感が常にある。 
 
グルダのピアノを聴いて、いつも音楽の本質に触れる感があり、しかもそれが気持ちいいのは、そういうわけだろう。グルダのジャズ指向というのも、ジャズが好きだからこういう演奏というわけでなく、逆である。
 
この中で、イギリス組曲第2番とトッカータは期待通り素晴らしい。また、もう聞き飽きた感があったイタリア協奏曲がこれだけのテンションで弾かれると新鮮だ。そして奇想曲は題名はよく知っていたものの落ち着いて聴くのは初めてで、なかなか面白い曲である。
 
ところで曲目を見ていると、はてどこかで見たレパートリー?
そう、マルタ・アルゲリッチ唯一のバッハ・アルバム(1979、DG)はこのトッカータとイギリス組曲第2番、そしてパルティータ第2番で、これだけ?とはいうものの、選曲といい、演奏といい、きわめて優れたものであった。
 
アルゲリッチは若いころグルダに習ったことがあり(グルダが教えた人は稀であるが)、もしかしたらバッハについてはこれらの曲が教材に使われたか、あるいはグルダの選曲嗜好を知ったか、何かあるのかも知れない。想像すると面白いことである。

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白川静 漢字の世界観 (松岡正剛)

2009-01-22 16:49:07 | 本と雑誌
「白川静 漢字の世界観」 (松岡正剛 著)(平凡社新書)
 
白川静(1910-2006)の業績が大変なものだということは、少しずつ知り始めていたものの、それ以上はなかなか入りにくかったし、この本で松岡が書いていることによれば白川静について第三者が書いた本はなかなか出てこなかったようである。
 
昨年、NHKの「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で松岡正剛が4回にわたり「白川静-漢字に遊んだ巨人」を語ったものは、私が白川に興味を持つきっかけであった。この本もその流れで出来たようである。
 
本全体がですます調の話し言葉で、比較的楽に読み進むことが出来る。漢字のなりたち、特に古代の祭祀とのかかわりは放送に次いで確認できた。
詩経、孔子、狂字から遊字、といったところはそれでもわかりにくい。
 
ただ最終章「漢字という国語」で、万葉仮名から、仮名、カタカナ、万葉集、古今和歌集、紀貫之あたりの展開は、なるほどそうだったのかで、日本に漢字がもたらされた後、単に文字がなかった世界への道具の輸入でなく、表音から表意、そして文脈とのかかわりで多様な意味をもつかたちなど、日本語の魅力あふれる世界が生まれてきたことがよく理解できる。
 
やはり、軽々に日本語に対して、改変、漢字の制限などをすることは、これを読むと本当に愚かなことであり、日本の活力を削ぐものであることが、もう一つ上のレベルでわかってくる。

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タロットカード殺人事件

2009-01-19 18:24:43 | 映画
「タロットカード殺人事件」 (Scoop 、2006英・米、95分)
監督・脚本:ウディ・アレン
スカーレット・ヨハンソン、ヒュー・ジャックマン、ウディ・アレン、イアン・マクシェーン、ロモーラ・ガライ
 
気楽に見られるコメディで、よく出来ている。あまりスリリングではないが。
ウディ・アレンは若い女優が好きで、監督としての起用、また共演が多い。ただスカーレット・ヨハンソンの場合は、「マッチポイント」(2005)でよほどうまがあったのだろう、これは名コンビであり、珍道中の雰囲気もある。
スカーレットが相手となれば、もう孫娘のようなものだろう。
 
ロンドン、そして郊外の貴族屋敷を舞台にしたのも、絵として楽しい。
物語は、死後の世界から戻ってくる人(イアン・マクシェーン)がいるくらいだから、おとぎ話も半分、推理ものとしてステロタイプでありながらむしろそれゆえ二人の掛け合いを楽しめるというつくりは、アレンが楽しみながら作った結果であろう。
 
スカーレット・ヨハンソンは、この作品や「私がクマにキレた理由(わけ)」(2007)など、このところ、ちょっと田舎っぽい、小柄で太めだが見方によってはいいスタイル、という得がたい型を作っている。
もちろんあのシンプルすぎる水着や眼鏡は、自信のあらわれと取れないでもない。
ヒュー・ジャックマンは、こういう2枚目をやらせれば今一番かもしれない。
 
最後の落ちは、少し前に予想がついてしまったが、それでもがっかりするほどではない。
 
アレンが終盤に飛ばして運転するミニカーのベンツ・スマート、「ソフィー・マルソーの過去から来た女」 (2007)ではカー・チェイスにも使われていた。これまでミニが使われることがあったが、映像のインパクトならスマートだろうか。シリアスなカー・チェイスには向かないけれど。

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田渕俊夫展 (智積院襖絵)

2009-01-16 21:31:08 | 美術
田渕俊夫展」(智積院講堂襖絵完成記念)(1月14日(水)~27日(火)、日本橋高島屋8階ホール)
 
京都東山、智積院講堂の不二の間、胎蔵の間、金剛の間、大悲の間、智慧の間を仕切る襖絵60面を田渕俊夫が墨だけで描いたもの。これを寺における公開に先駆けて展示したものである。
 
これがどんなものであり、どのようにして描かれたかについては、前回のNHK新日曜美術館で見ていた。それでもこうして襖の実物を目の前にすると、この職人の、克明な仕事に驚かされる。
そう、現代のアートというより職人の仕事というべきもので、60面をこれだけ細かく、そして画家の思い通りに描ききった、それも修正の上塗りがきかない墨で、である。
 
といっても、さっと見てすごいというよりは、よく見ていくうちに、ここに描かれた自然がいとおしくなるといった印象だ。となると、修行の場でこれを見てリラックスしすぎないかという余計な心配はある。
 
これは実用のものだから、今後もっと時間がたって見られてどうか、というものだろう。 
智積院にわざわざ行くことは先ずないだろうから、こうしてみる機会を得たのは幸運だった。
 
この数年、東山魁夷(唐招提寺)、平山郁夫(薬師寺)と、有名画家によるこのような奉納が続く。話題づくりという感もあろうが、ヨーロッパでルネッサンスのころには多くの大画家、大彫刻家にこのようなプロジェクトがあった。珍しいことではないのだろう。
 
必ずしも全体が同じ技法ではなく、朦朧としたもの、輪郭が描かれたものなど、さまざまである。「桜」はやはりモノクロでも色を感じさせるし、「すすき」は秀逸である。

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ソフィー・マルソーの過去から来た女

2009-01-13 22:52:47 | 映画
「ソフィー・マルソーの過去から来た女」 (La Disparue de Deauville 、2007年、仏、104分)
 
監督:ソフィー・マルソー、脚本:ソフィーマルソー他
ソフィー・マルソー、クリストフ・ランベール、ニコラ・ブリアンソン、シモン・アブカリアン、マリー=クリスティーヌ・バロー、ロベール・オッセン
 
タッチはフィルム・ノワール風、テーマはもう少し個人的、家族内のもので、全体としてソフィー・マルソー好みのものである。
昨年、映画祭で公開されたものの劇場未公開のようで、もしやったとしてもせいぜい単館上映くらいだろう。
むしろDVDで2回くらい見たほうが面白い。
 
ホテルで成功した男と女優、女優の死、男の息子、後妻、そして女優の記憶で飾られたなぞの部屋、女優に良く似た女、男の失踪を契機に事件に巻き込まれる過去にトラウマを持った警部(主人公)、という構成で、最初は話を確認していくのに骨が折れるし、画面が一般に暗いから、本当はフランスの田舎町の映像を楽しみたいのだが、TVの画面では多少つらい。
 
もっとも、最後のほうで話の詳細は明かされる。それでも2回見ると、2回目は個々の映像の意味はそれなりにあるようだ。
 
ソフィー・マルソーは映画つくりには熱心なようで、ついに今回は脚本、監督に手を染めた。その結果登場場面が減ったかどうかは定かでないが、もう少し見たいところではある。このところ大作にあまり出てないが、フランス女優として存在感もあり、その男をひきつける容貌は他にないものがある。今後に期待。
 
警部役のクルストフ・ランベールの演技は納得させるものがあるけれど、容貌がもう少し映える人のほうがよかったかもしれない。
 
失踪したホテル・オーナーはロベール・オッセン、若いころの顔をそんなによく覚えてはいないが、こんな柔和な顔ではなかったのではないか。
原題は、ドーヴィルからの失踪。金持ちのリゾートであるドーヴィルと産業と海運のル・アーブルとが橋でつながっていて、この設定は意図したものであると、監督はインタビューで語っている。

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