今から24年前の1993年の話、それは20世紀だ。
今は21世紀だから大げさに言うと世紀を架けた話しになる。
その年の私は会社の資金繰りの事で年の初めから眠れない夜が続いていた。
会社の年商は12億ほどあり、東京、松本にも支店があった
手広い経営をしたので社員は30人近くになりその分販売管理費が一気に増えて
粗利益がそれに追い付かない月が続いていた。
簡単に言えば利益より経費が上回っている。
つまり赤字体質の経営が続いていたという事だ。
単に眠れないと書いたが、当時会社は手形を振り出しており
決済期日に現金が銀行になければ手形は不渡りになり
2回の不渡りで銀行取引停止となってしまう、2回と書いたが
実際には1回の不渡りでも対外的な信用はなくなってしまうので
その時点で実質的な倒産となってしまうのである。
だから必ず足りない現金を集めてくる必要がある、
つまり資金繰りをしないといけないのである
それで毎日精神的にかなり追い詰められて眠れないでいた。
今思い出してもかなりつらい思い出だ。
しかし今だから言える事だが
そのおかげで現在は当時を反面教師として自分を戒めることが出来ているから、
つらい思い出はそれなりに役立っている。
それでも今となればそのつらさも薄まって来ている。
ある意味それだから人は明るく生きていけるのかもしれない。
当時社員の給料だけで月に約1000万円
そのほかの経費で500万円ほどがかかっていた
つまり月に合計1500万円と手形を落とす現金が無いと
会社は成り立たない状態になっていた。
当時はバブル景気は過ぎていたが余韻は残っておりまだ人手不足状態
社員の要求はエスカレートしていた。
遠方作業では現地で作業が終了しても
残業代は帰社する時間まで含めて払えという要求が出てきており
そのような要求も受け入れざるを得ないような状態が続いていた。
当然仕事はこなしても人件費がかかり過ぎて利益は出ない状態であった。
もちろんこれはほんの一部の状況だが全般に社員の要求は高く
経営しづらい環境にあったことは間違いない。
2月頃には銀行から4000万円の融資が決定して資金繰りは少し和らいだが
いぜん赤字経営は続いていたので資金繰りが悪化することに
そんなに時間はかからなかった。
12月に役員全員が集まって最終の対策を練った
経理担当専務の提案で役員それぞれ金を出し合って
資本金を増やしキャッシュフローを大きくすることで意思は統一できた。
私は経費削減が出来ない限り
根本的な経営改善は無理だと悟っていたので
その時点で内心は倒産を覚悟しており、それを自身は受け入れていた。
それ以上役員皆さんや親戚から資金を提供してもらえば
傷は深くなるだけだと理解できていたからだ。
私は商人の家に生まれていたから商売が上手くいかないときは
傷が深くならないようにタイミングよく商売をたたまなければいけないという事を
子供のころから何となくどこかで教訓的に教えられて
身に沁み込ませていたのかもしれない。
私は現在も確信的にそう思っているから
当時もそう思っただろうことに間違いはない。
子供の頃に身に付いた考え方は大切だという事が良くわかる。
その後の私や役員の人生を見るとまさしくそれは当たっており
傷を深めることなく早く会社を整理したことは
社員に対しては申し訳なかったが役員にとっては正解であった。
その点では社員と経営者で会社への思いや苦労は全く次元が違うので
社長として割り切って決断した事は今も当たり前だと思っている。
私自身の決断は出来たのだがそこからがまた大変であった。
時期は12月なので当然年越しの月だ、不渡り手形を出せば
社員、得意先は暗い年越しとなってしまう、せめてもの
誠意として不渡りは年明けにすることを役員全員で決め
わずかばかりのボーナスも何とか現金を捻出して社員の皆さんに支給した。
TVでは長野冬季五輪が決定した瞬間の映像
(サマランチがナガノーと発言する場面)を繰り返し流していた
走馬灯のように今でもそれを思い出す。
嬉しくも有り残念な思いも混じった複雑な思い出だ。
いや苦しかった思いのほうが強いかな。
そんなことで数年後の冬季長野五輪も決まって
景気の先行きは多少明るい兆しも見えていたのに
倒産を決断をしなければならなかったのは残念であった。
少し重い話なので少しづつ進めていきたい
以下次回。
好きなエレカシでデーデ
金を皮肉っているのか、開き直って本音で金と言っているのかどうなのだろう。
でもこの過激さはいいな。
上品さはいらない本音こそが他人(ひと)の心を動かす
いつもエレカシを見て聴いてそう思う。
デーデ【HD】