明るく前向きなブログ更新でなくてごめんなさい。
今月いっぱいは堪忍してくださいね。
ある看護師さんが、私を抱きしめておっしゃいました。「気持ちがよくわかるんです」と。
「あまり言ってはいけないことだけど昨年婚約者が亡くなった…」と。
患者やその家族に寄り添う美しい看護師さんに、私は人知れず感動していました。
私の弟は16歳の息子を亡くしました。立ち上がるまでに2年かかったそうです。
近しい人との別れに直面したときの喪失感は体験なさっていないかたの想像をはるかに超えています。
その死は信じたくないし、どうしても受け入れられない。
そうすると、どんどん哀しみの底に沈みこんでしまいます。
運命だとか天命だとかでは簡単には片付けられませんが、やはりそれはあると思います。
人の命は長さではなく、どんな一生でも輝いていたはず。
主人が病気とわかったのは2年2か月前でした。人生の中でわずか2年ちょっとだけ…。つまり彼の人生を代表する出来事は病気ではなかったということです。
子どもの時から利発で常に成績はトップ。しかし、家庭の事情で単身上京して働きながら大学を出た主人。
それに比べて、私は、比較的に贅沢な暮らしをしていました。しかし、精神的には何か満たされないものがあったのです。伸び伸びしていなかった。
主人のお見舞いに奈良から弟さんが一週間に3回も来てくれました。「貧しかったけど楽しかったね」と、元校長先生をしていた弟さんが語りかけているのを聞いて羨ましくもありました。
心が豊か…
そんな主人に私は惹かれたのかもしれません。
病気とわかってからの方が1日1日を大切に生きて来たような気がします。
考えてみたらガンと言われても私たちの日常の楽しみ方は変わりませんでした。よく笑い、よく喜び、少なくとも泣いたことはありませんでした。
私たちは、随分前に尊厳死協会に入っていました。果たして尊厳とはなんでしょう。
尊く厳かなこと。
今朝、6時36分に瞑想をしました。少しずつ心がほぐれてきているようです。
あのお茶目な笑顔を思い出すことにします。楽しかったことを思い出すことにします。
それが私たち二人の尊厳だと気がつきました。
「君は元気だね。その声、その笑顔をみるとこっちまで元気になるよ」と言っていた主人。
この喪失感は私を成長させてくれているはずです。
喪失感はたとえて言うならばポッカリ穴があいた感じです。
その穴に、皆さんの愛が注ぎ込まれています。
たくさんのメール。たくさんのお手紙ありがとうございます。