ユダヤの話にあるそうです。
10人の人がいたら、そのうち1人はあなたを大嫌いで敵と見ている人。2人はあなたを大好きで味方でいてくれる人。あとの7人はどちらでもない人。つまり日和見菌。
自分を嫌っている人に焦点を合わす人は人生の調和を欠いている人だそうです。
私は思います。
もし、世界中の皆が私を嫌い敵になったとしても、夫だけは私の味方でいてくれている確信があったので、私は嫌われることに恐れは感じなかったでしょう。
夫は亡くなったその瞬間、彼の「死」も「苦悩」も終わりました。つまり至福が訪れたに違いありません。
しかし、私の終わりはここからはじまりました。
私の人生には彼なくしてはありえなかったからです。
日にち薬の効果効用はいかに?
確かに、毎朝、毎晩泣きはらすことはなくなりました。
身悶えするように部屋の中をうろつき回ることもなくなりました。
しかし、悲しみが癒えることはありませんでした。
悲嘆とは大切な人を亡くした後の心の反応です。
悲嘆とは、愛着を感じていたものを失うことです。
愛着とは、大変な時に安心できる場所、自分の一部のような存在、相手を思いやり思いやってもらえる関係。
つまり、愛着は、自分を成長させ、安心させ、健全でいられるという機能をもちます。
そうした大切な、大好きな存在があったればこそ、その喪失の後には悲嘆が現れます。
決して弱いからではなく絆が強いからだと思います。
愛着と言えば、ヨーガ・スートラの第2章に5つの煩悩を挙げています。
無知→自我意識→愛着→嫌悪→生命欲です。
無知とは、人間本来の愚かさに気づかない人。あるいは気づこうとしない人。
この無知から、私意識が生まれ、愛着し、失うと嫌悪を感じ、生きていくことに困難をきたします。
しかし、この煩悩こそ生きる原動力に違いないのです。
問題は喪失という動かせない事実にどう対峙するか…。
ただ何もせずにいると悲嘆反応が強いまま長く続きます。
悲嘆のために生活や仕事や対人関係に支障も出てくるでしょう。
悲嘆はちゃんと経過していくものです。
先が見えない状況から、休んだり人と関わりあいながら、一条の光が見えてきたら悲嘆のプロセスを順調に進んでいる証拠です。
私の場合は、涙も出ないほど感情が麻痺したりすることはありませんでした。だからたくさん泣きました。
悲しみから逃げず、上手く悲しみに取り組み、生活に取り組んできました。
両方をバランスよく行き来させてきました。
写真や動画を見て、懐かしむ。
又は泣く。
思い出を語る。
本を読む。
出かける。
これは私がごくごく自然に取り組んできた方法でした。
もし、悲嘆が正常に進まない場合には、複雑性悲嘆が考えられます。
カウンセリングや特別なケアが必要になるようです。
悲嘆の正常なプロセスは、戸惑い悲しみに圧倒される時期を経て、悲しみとともに生活ができる…。
亡き人のことを思い出したいときに、思い出し、そうでないときには、脇に置けるようになるとか…。
そして亡き人のいない世界でも自分の生活ができ、亡き人の思い出を大切にできるようになるそうです。
私はまだまだですが、きわめて順調に悲嘆のプロセスを歩んでいるようです。
大阪に向かっています。