【又、伊勢に行きましょう!
私の現状はともかく、私は最高の伴侶を得ていると感謝、感謝、感謝、ただただ、神に、感謝です。
今日はほんとにありがとう!
おやすみ😴】
夫から来た最後のLINEです。
そう言われるほどの妻でいられたのかは疑問ですが、7月9日早朝、私の夫博久は天に召されました。
2017年4月、血尿により、とある病院に駆け込んだ夫から、電話がありました。「入院することになったんだ」と。
それで2週間の検査入院がはじまりました。私のスケジュールは東京ヨーガ連盟大会後、大阪、岡山が入っていましたが、検査入院という少し気楽さがあったのです。
しかし、事態はそんな甘いものではありませんでした。
大阪、岡山での一日を除き毎日病院には行きましたが、その途中経過の中で、彼は医師から、よくない結果を知らされていたようです。
彼は私にどう言おうか?苦悩していたようです。病人に、そんな精神的苦悩をさせる病院のありかたに私は冷たさを感じます。
検査入院から生検の結果を残し、退院になり、2人でお寿司屋さんに入った記憶があります。そうそう新しい夏のジャケットも買いました。
時は、大型連休に入ろうとしていました。
生検の結果は連休明けでした。
前立腺の組織を10箇所採取した結果です。
10箇所マックスで人相の悪いガンが確認されました。リンパにも転移。あえてステージも余命も聞きませんでした。でも医師は言いたくて仕方ない風情。
非常に悪いです。まぁ、今の時点で2〜3ヶ月で死ぬということはないでしょうが…。と人の命を軽く扱う医師。
主人が処置室に行っている間、医師と2人だけになった私は言いました。「どんな状態なのか素人でもわかります。でも先生のような言い方をされたら治るものも治りません」…と。
手術はできない。抗がん剤は最初から拒否。西洋医学の限界を感じていましたし…。
それで、ホルモン治療が始まりました。
ここからが2人の楽しいガンとの戦いが始まりました。
楽しかったんです。
食事療法に、温熱療法、奇跡を起こす民間療法、高濃度ビタミンC点滴。人参ジュース。
私の時間が許す限り一緒に行きました。
伊勢神宮にも行きました。映画や落語やコンサートにも行きました。
PSAという、ガンマーカーは劇的に下がり毎月の定期検診で医師も驚いたのです。
しかし、この病院とは早く手を切りたい…と、調べ始め、帝京病院に転院しました。
とにかくガンだと言うことを忘れるくらい、安定していたのです。
治療の後で彼と入るカフェはいつも決まっていて、「なんだか治療に来ているという感じじゃないね」と、楽しそうに笑う彼。
ところが昨年の夏ごろから腰痛を訴え始めました。暮れにいよいよ痛さが増しました。骨転移でした。帝京の主治医が某国立病院に転勤に伴い転院。ピンポイントで放射線照射。
毎月の検診の時に一緒に行くべきでした。子どもじゃないんだから一人でいく…と言う彼の言葉を鵜呑みにしていました。
CTをまた撮ったよ、と言う彼にどうだったの?と聞くと別に異常なしだったと答えるから本気にしていました。病院から戻ってきて、根掘り葉掘り聞く私に、いつもアッサリ答える彼でしたが、堪り兼ねて3月には骨シンチや肝臓の造影CTの時は一緒に行きました。骨転移のほかに肝転移も認められました。
抗がん剤をやらなければ、数ヶ月で死にますよ、と冷酷に伝える医師。
2年間2人で病と闘ってきて、治ったのかと思うくらいだったのに、だんだんまた悪くなっていく過程で私にも調子が悪い…とか言いませんでした。今から考えると彼は近い将来こうなるとことを予見していたのだと思います。
でも、私がチケットを入手したお芝居や映画にも一緒に行き、食事をし、近いうち伊勢に行こうね、と言ったら行こう!行こう!と。
彼は自分しかわからない身体の不調をひとりで背負っていたのかもしれません。私を心配させまいとして。
夫、博久は、慈愛の人。私はこんなすごい人と夫婦だったんです。
4月25日、布団から起き上がれなくなり、救急でカルテのある某国立病院に搬送。ここに入院するならば抗がん剤治療、しないならお帰りください。
動けない人に帰れという非人情。仕方なく抗がん剤点滴を一回しました。
副作用が顕著に現れました。嘔吐、脱毛、意識障害…。
この病院にいる限り、つぎの抗がん剤を投与されてしまいます。
彼の場合は、抗がん剤は一生打ち続けるとか。
何とかこの病院から脱しなくてならない…。私は奔走しました。行き着く先は都立豊島病院。しかし受け入れてもらうにはひと月半ほどかかります。
入院はひと月過ぎていました。夫のストレスはピークを迎えていました。
それで、在宅医療に切り替えました。時折起こる意識障害に内心ビクビクしながら…。
この18日間は濃密な時間でした。
骨転移は7センチもあり、仙骨を溶かし、夫はまったくベッドから動けない人になってしまったのです。
しかし、彼はいつも穏やかでカメラを向けると笑顔。
豊島病院は思ったより早く入院の運びになりました。まずは一度は入院しなくてはいざというときに診てもらえない
システムでしたので一泊二日の予定でしたが、その日の早朝に意識障害が起き、緊急搬送。豊島病院で受け入れていただきました。
ガン性髄膜炎と即座に診断し、点滴処置。某国立病院では見つけられなかったのです。
温厚な主治医の先生に優しい看護師さんたち。病院によってこうも違うのか…と思ったものです。
こちらで約ひと月の入院になりました。
変えることのできないことに対して、それを受け入れる心の静けさが必要であることは頭では理解していました。
覚悟はできていました。
主治医の先生の愛ある言葉を私は静かに聞きました。
この先生に最後まで診ていただける幸せも感じました。
いろいろなご夫婦を見てきましたが、こんなご夫婦を見たことがない。ご主人は幸せです。とも言っていただきました。
彼の弟妹や甥や姪が何度も見舞ってくれました。私の弟家族も何度も見舞ってくれました。
愛で満たされた入院生活でした。
あまりにも愛し合い過ぎていて、喪失感はたとえようがありません。
君の幸せが俺の幸せ…
彼は、いつも言っていました。
はやく立ち直らなくては…と、思うのですが、よくもこんなに涙が出てくるものです。
一卵性夫婦だったので…
しばらくブログの更新は前向きではないと思いますが、見たくないかたはスルーしてください。
奇跡は…
ありました。
末期ガンでありながら腰が痛いとは言いながら2年間、楽しく元気にいられたことです。
彼は、逝くべき時を選んでいたのかもしれません。