智は翔を見ると自分でも顔が強張るのがわかる。
翔が近づいてくると智は逃げるように違う場所へ移動する。
マサキがいない日は何度も鍵を確認し
布団にくるまって怯えながら過ごす。
そんな毎日だったけど智は不思議と
人魚の世界に戻ろうとは思わなかった。
そして、翔の事も嫌いにはなれなかった。
言葉を発することもできず
足はまだ歩くたびに痛み
庭師の仕事も重労働で大変なのに。
そして翔に会うのが怖いはずなのに。
翔は、謝って済む問題ではないとわかっていたが
なんとか智に謝罪をしようと考えていた。
しかし、謝罪するどころか近づくことさえ
智の負担になるとわかると一定の距離を保ち
遠くから見つめる。
そして智が視線に気付き目線を向けると
すぐに視線をそらす。
避けられていると知っている翔からは決して
智の方には近づかなかった。
翔の静かに遠くから向けられる後悔と懺悔の視線。
それを避けている自分。
そんな毎日を過ごしていくうちだんだん智は
翔の存在が気になって仕方なくなってきていた。
もうずっと智と翔は口を聞いていない。
そうこうしているうちに智は、翔がお見合い相手と
結婚するという噂をマサキから聞く。
翔が結婚?
その話を聞いて智はショックを受ける。
翔の事を避けて逃げていたはずなのに。
その事実はいつまでもいつまでも
智の胸にズシンとのしかかっていて
智の頭から離れなかった。
翔の姿を見ると、智の胸はチクチク痛む。
翔の結婚の話を思い出すと、なぜか胸が苦しくなる。
この時、初めて智は翔の事が好きだったのだと気づいた。
あの日の事は確かにショックな出来事だった。
でも翔と話さなくなって思い出すのは
海に投げ出された翔を助けた時に初めて見た顔。
そして翔が息を吹き返した時の喜び。
そして初めて人間になった時に改めて見た翔の顔。
よろしく、と言って握手をした時の翔の優しい手。
追い出されちゃった、と言って照れくさそうに笑う翔の姿。
自分の方に近づいてきたのはいいが手持ち無沙汰で
なぜか近くにあったほうきを取り出してきて不器用だけど
一生懸命庭を掃いている姿。
一緒にベンチに座ってボーっと庭園を眺めていた日のこと。
初めて話しをしてくれ時の、照れくさそうにはにかんだ笑顔。
世界を旅した時の話を聞かせてくれた時の聡明で、綺麗な横顔。
庭で翔が智を見つけると嬉しそうに
近づいてきてまた邪魔しちゃうな、と言いながらも
照れくさそうに一緒にベンチに座る姿が好きだった。
博学な翔から本で得た知識や物語
世界で出会った興味深い物やその国の人のこと
世の中の不思議な話や面白い話などを
聞くのが好きだった。
そんな事を思い出しながら庭を掃いていたら
智の目から涙が落ちた。
ある日、いつものように智が庭の手入れをしていると
遠くから翔が自分のことを見ているのに気づく。
翔は智が気づいたことを感じるとさっと目をそらし
その場から慌てて去ろうとする。
「……!」
思わず智は翔に駆け寄った。
翔は智がずっと自分を避けていたので
その行動にびっくりしたようだった。
智が翔の目の前に立つ。
久々に近くで見る翔は以前よりも
痩せていて益々青白く顔色が悪かった。
「……」
「……」
智は翔と目が合うと目線をそらし俯く。
智はあんなに翔の事を恐れていたはずなのに
もうその気持ちはすっかりなくなっている事に気づいた。
「……智」
「……」
翔が戸惑いながら智の名前を呼ぶ。
智が俯いていた顔をゆっくり上げると
真っ直ぐに翔を見る。
「とても謝って許されるような事じゃない事はわかってる」
「……」
「悪かった」
翔は、そう言うと涙を流した。
智はその姿をじっと見つめる。
「……智」
「……」
翔が小さく智の名前を呟く。
智は翔を見る。
「今、こんな事を言うべきじゃないこともわかってる」
「……」
「でも、言わせて欲しい」
「……」
翔は少し躊躇いながらそう言った。
智は何を言うのだろうと翔を見つめる。
「智の事がずっと好きだった」
「……」
思いがけない言葉に智は翔をただただ
見つめることしかできない。
「じゃあなんであんな事をって思うだろ?」
「……」
「言い訳になってしまうけど聞いて欲しい」
翔はそう言うと近くにあるベンチに智を座らせ
自身も一緒に隣に座ると話し始めた。
それは、3年前の出来事だった。
3年前、自分の不注意から最愛の妻子を
不慮の事故で亡くしてしまった。
あまりの突然の悲しい出来事とその時の罪悪感で
その後ずっと生きる希望も意欲も無くし
部屋に引きこもり外に出ることがずっとできなかった。
両親からはいつまでも引きずってないで
将来の事も考え早く結婚でもし忘れるようにと
何度も責められていた。
そしてあの日の夜。
その日も散々両親から責められヤケになり酒を飲んだ。
久々に飲んだ酒は思いのほかまわりが早く
自分でも前後不覚になる位酔ってしまっていた。
そんな状態で智に会いにいくべきではなかったのに
その時の自分はどうかしていたのだろう。
なぜか無償に智に会いたくて会いに行ってしまった。
でも智の自分を見る目が当たり前だがいつもと違い
怯えた目をしていて自分から逃げたがってるいるのが分かった。
自分自身を両親だけではなく智にまで否定された気がして
逆上しあんなひどいことをしてしまった。
「本当に最低すぎるよな。
声も出せず、抵抗もできない智に。
恨まれたって憎まれたって仕方がない」
「……」
翔はうなだれながらそう言った。
「謝って済む問題じゃないことはわかっている。
でも智にずっと謝りたかった」
そう言うと翔の目から涙がこぼれ落ちた。
智は何かを考えるようにしばらくその姿を見つめる。
そしてゆっくりと腕を伸ばすと翔の頬に優しく触れた。
翔がびっくりして顔を上げる。
翔の目からは涙が溢れ出ていた。
智はそのまま翔の涙を指で拭う。
そして、もういいからという風に翔の身体を
包み込むようにふんわりと抱きしめた。
もう智には、翔に対する恐怖心は全くなかった。
そこにいる翔は、あの時の翔とは別の本当の翔の姿。
翔の言う通りあの時の翔はどうかしていたのだろう。
翔は躊躇いながらゆっくりと腕を伸ばす。
そして自身を包み込むように抱きしめてくれている
智の背中にそっと手を回した。
そしてそのまま智の胸に顔をうずめると
何度も何度も、悪かった申し訳ない事をしたと言って
涙が枯れるんじゃないかと思う位
智、智、と言い泣き続けた。
智は翔を包み込むように抱きしめながら
初めて翔にあった日の事をぼんやりと思い出していた。
あの嵐の夜。
真っ暗な海の中で一つの明かりが見えた。
近づいてみると船は波に煽られ大きく揺れていた。
そしてそこから人が投げ出されるのがはっきりと見えた。
必死にその人を探し出し、そして荒れ狂う海の中
海岸まで運び安全なところで横たわらせると
飲み込んでしまった海水を出させ、そして呼吸を取り戻させた。
あの息を吹き返した時の喜び。
そしてその時見た翔の顔。
多分この時から好きだったのだ。
カズには関係ないといったけどそんなの嘘だ。
だから声を失っても
足が痛くても
海の泡となって消えてしまう可能性があると分かっていても
人間になりたかった。
しばらく泣き続けていた翔が突然何かを思い出したように
はっと顔を上げた。
智はなんだろうと翔の顔を見る。
「……」
「……」
翔の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
でも翔は真剣な顔で智を見つめる。
智は不思議そうに見つめ返す。
「……あれは」
「……」
「あれは、智だったんだね?」
「……?」
翔は何もかも思い出したようにそう言った。
智は何の事かわからず翔の顔を不思議そうに見る。
「あの嵐の日に助けてくれたのは、智だった」
「……!」
智はその言葉に顔色を変える。
そしてその場から一刻も早く立ち去ろうと立ち上がる。
「お願い、行かないで」
「……」
翔が智の手を掴む。
智が不安そうに翔の顔を見る。
「智は」
「……」
「智は 人魚だったんだね」
その言葉に智は絶望的な表情を浮かべた。
翔はあの嵐の日のことを全て思い出していた。
翔はあの日、このまま死んでしまっても構わないと
周りの意見も聞かず甲板へと出た。
そしてそのまま波に煽られた船に投げ出され海に落ちた。
自分の身体が海へと沈んでいく中、誰かが身体を支え
どこかに引っ張って行ってくれたのを
意識が薄れる中ぼんやりと眺めていた。
あれは
あれは智だった。
智の手を掴み顔を見る。
「お願い、逃げないで」
翔が智の手を掴んだままそう言った。
智は翔に手を握られながらイヤイヤと首を横に振る。
「智はあの時助けてくれた人魚なんでしょ
なんでずっと気づかなかったんだろう」
「……」
「あの時見たんだ」
「……」
「顔と、そして、尾ひれを」
智が言わないで、というように翔の口を両手で塞ぐ。
翔は、その智の手を優しく掴むとゆっくりと外す。
そして静かな目で智を見た。