ぞうきんは 他のよごれをいっしょうけんめい 拭いて
自分は よごれに まみれている
この歌も 『 三浦先生 』 がよく口にされ、自分も自ら実践してこられた言葉です。
洛南高校でも高校生がこの言葉に深い感銘を受け、
その言葉を実践され、自分のものとされた方がたくさんおられます。
『 菩薩とは ? 』
きれいな衣を着てる人を菩薩と言うのではありませんよ。
他人のために自ら汚れている人を菩薩というのです。
ある高校生は 「 ぞうきんになろう 」 と決心して、
残りの高校生活2年間、毎朝、弘法大師をお祀りしてある 『 御影堂 』 に
雑巾とバケツを持って
「 掃除させてください ! 」 と
御影堂の欄干を一生懸命拭いていった生徒もいました。
そして、その方は京都大学も合格し、大学院にも進み、就職も内定したのに、
三浦先生の 『 世の中の雑巾になれ 』 という言葉が
どうしても自分の心の中で大きな存在を占めていて、
ついには、政治家を目指し、今では政界で活躍している人もいます。
ついつい 『 仏さま 』 というと、きれいな・澄ましてるような人を
想像しがちですが、本当は責任を感じて泥まみれになっている人のことをいうのでしょう。
「 一人一人が学校長だと思ってください。すべて責任は私が取ります。」
というのは、三浦先生の教えでした。
責任を取るということは口ではなんぼでもいえますが、
事実はとても出来ることではありません。
良いことは自分がやった、失敗したら人のせいにするのが世の常です。
洛南高校の歩みを見てきますと、
その根底には 「 挨拶 」 「 服装 」 「 礼儀 」 「 掃除 」
という下座行 ( げざぎょう ) の上に 『 勉学 』 という花が咲いたと思います。
『 ぞうきん魂 』 が今の洛南高校を作り上げたと思います。
先日の 『 三浦先生の葬儀 』 での京都市長の弔辞は
今、自分はこの 「 ぞうきんの心 」 実践させていただいている
ということはとても感銘を受けました。
身近なことでも、身の回りのことでも何か一つでも実践できれば …
そのことは 「 一隅を守る 【 守一隅 】 」 ということであり、
そして 「 全体を忘れない 【 照千里 】 」 ということになってくると思います。
自分は よごれに まみれている
この歌も 『 三浦先生 』 がよく口にされ、自分も自ら実践してこられた言葉です。
洛南高校でも高校生がこの言葉に深い感銘を受け、
その言葉を実践され、自分のものとされた方がたくさんおられます。
『 菩薩とは ? 』
きれいな衣を着てる人を菩薩と言うのではありませんよ。
他人のために自ら汚れている人を菩薩というのです。
ある高校生は 「 ぞうきんになろう 」 と決心して、
残りの高校生活2年間、毎朝、弘法大師をお祀りしてある 『 御影堂 』 に
雑巾とバケツを持って
「 掃除させてください ! 」 と
御影堂の欄干を一生懸命拭いていった生徒もいました。
そして、その方は京都大学も合格し、大学院にも進み、就職も内定したのに、
三浦先生の 『 世の中の雑巾になれ 』 という言葉が
どうしても自分の心の中で大きな存在を占めていて、
ついには、政治家を目指し、今では政界で活躍している人もいます。
ついつい 『 仏さま 』 というと、きれいな・澄ましてるような人を
想像しがちですが、本当は責任を感じて泥まみれになっている人のことをいうのでしょう。
「 一人一人が学校長だと思ってください。すべて責任は私が取ります。」
というのは、三浦先生の教えでした。
責任を取るということは口ではなんぼでもいえますが、
事実はとても出来ることではありません。
良いことは自分がやった、失敗したら人のせいにするのが世の常です。
洛南高校の歩みを見てきますと、
その根底には 「 挨拶 」 「 服装 」 「 礼儀 」 「 掃除 」
という下座行 ( げざぎょう ) の上に 『 勉学 』 という花が咲いたと思います。
『 ぞうきん魂 』 が今の洛南高校を作り上げたと思います。
先日の 『 三浦先生の葬儀 』 での京都市長の弔辞は
今、自分はこの 「 ぞうきんの心 」 実践させていただいている
ということはとても感銘を受けました。
身近なことでも、身の回りのことでも何か一つでも実践できれば …
そのことは 「 一隅を守る 【 守一隅 】 」 ということであり、
そして 「 全体を忘れない 【 照千里 】 」 ということになってくると思います。