本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

不安に立つ !

2010-09-24 23:02:14 | 住職の活動日記
 『 不安に立つ 』 という本を読んでいます。

「 安田理深師 」 と 「 茂田井教亨師 」 の対談です。

1979年11月、比叡山の近くのホテルで二泊三日にわたって行われたものです。


 「 不安 」 ということは私たちと先生方との違いはありますが、

ずっと私の中で問題になっていることなのです。


安田先生は この本の中で、

  『 不安こそが如来である 』  とおっしゃています。

 〈 不安 〉 ということが人間を実存に呼び戻す。

  仏の智慧が 〈 不安 〉 という形で人間に来ている。


 そして、神学者のティリッヒという方について、

  ( ティリッヒという方が来日された時、東寺の宝菩提院で

    安田先生と対談されたのです。

    宝菩提院の客間にはティリッヒの短冊に記したものが飾ってありました。)

 そのティリッヒにぼくが会ったとき、告白しておったです。

  「 わたしはあちこちで講義をしたり、教室で話をしたり、説教のために

   壇に立つことがある。しかし、いまだかつて悠々と話したことがない。

   たえず動揺しております 」 と語った。

 堂々たる体格なんですが、それがたえず小さな震えを持っているんですね。

  「 いつでも不安というところに、自分をおいてます 」

 という言葉にぼくは感動しました。

 つまり、〈 不安 〉 を破って、安心までいったところを自分の立場とせずにですね

  「 いつでも ”不安という分水嶺” があって、そこに自分をおいている 」

 安心とか悟ったとかに自分をおかないんですね。

 いつでも迷っておるのと、悟っておるのとの ” 分水嶺 ” に

 自分をおいている。


というような、興味あるところがたくさん出てくるのです。

付箋をつけていってましたら、本が分厚くなって入らなくなってしまいました。


 お彼岸でも 『 不安 』 ということが、

この迷いの此岸から彼岸へ渡っていく原動力になるのではないかと、… 思って

話し出したのですが、付け刃的でしょう、自分のものになっていなかったので、

思うようには話せませんでした。


 若いときは 「 不安 」 ということも全くといっていいほどわかりませんでした。

講義の後、 「 不安について一言述べよ ! 」 といわれて、

何が不安なのか? 単純には順番が回ってくるのが一番不安なようで、

正直にそれを言った人が顰蹙をかっていました。

 年とともに、何ともいえない 「 不安 」 がふと襲ってくることがあります。

私たちに与えられた時間は有限である、が

まだ道半ばにも達していない、という焦りのような、 …

夜中に目がさめると、気になって仕方がないことがあります。


 では、といって、真剣に仏道三昧に入れるかというと、

妙に世間の面白いことも気になるし、捨てきることも出来ず、

「 分水嶺 」 というより、中途半端というかええ頃加減のような ?? です。

その当時 「 三浦先生 」 も

 『 分水嶺ということがわかる ? 』 ということを

話しておられました。  
 
   ( その時はなんのことかわけもわからず )

今思うと、先生もこのことは常に気になっておられたのでしょう。



 こむつかしくなってしまいました。     
コメント
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