苦しむとき 仏は近くにあり
楽しむとき 仏はかなたに去る
チョット早めですが、24日所用があり、早めの です。
この言葉は、お釈迦さまの言葉です。
また違った表現ですが、三浦先生からもよくお聞きしていました。
先生と寝起きをともにしていると、一緒にいるというだけで
先生を身近に感じてしまいます。
「 一緒におっても、悩まない人は
自分にとっては遠い存在なんですよ、
遠くにおっても、悩んで訪ねてくる人の方が
自分のそばにいるのと同じなんですよ ! 」
一緒にいたとき、この言葉はとても 「 痛い 」 言葉でした。
この言葉も、年齢を重ねるごとに響いてきます。
若いときの価値基準からすると少しずつ変わってきます。
ただ、楽しくて面白い人が、いつも一緒にいて嬉しいのですが、
ただ、それだけでは物足りなくなってきます。
やはり、人生を語り、ともに共感しあえる人が身近に感じてきます。
苦労を重ねるごとに、人生の深みもわかってきます。
いかんとも、年齢にはかないません。
その年になってこないとわからないことがたくさん出てきます。
その年はその年での大問題なのです。
その問題に真剣に取り組むか、逃げるかの違いで、
仏さまは近くにもあり、遠くに去ってしまうものです。
お釈迦さまもどんなに私の近くにおろうとも
悩まない人は私にとっては遠い人なのです。
と、弟子たちを叱咤する意味でもこの言葉を述べておられます。
苦しむとき、仏は近くにあり
楽しむとき 仏はかなたに去る
悩みがないときは 「 宗教 」 ということも必要ないのです。
生きるということを真剣に考えたとき 「 悩み 」 は必ず出てきます。
「 楽しむ 」 とは現実から逃避していることです。
今の苦しい世界から逃げ出してしまおうとする、娯楽とかでごまかして
その時はそれでいいのですが、どうにもこうにもならいことになってきます。
カラオケやスポーツで誤魔化せる間はそれでいいのです。
( 仏さまはかなたに去っています )
苦しみを引き受けたとき、そこに仏さまはいらっしゃるのです。
三浦先生が、
『 地獄に仏 』 というでしょう。
極楽にはいないのですよ。
八方塞がりでどうにもならないときにしか、
仏さまはいらっしゃらないのですよ !
と、実感を込めてお話しされていました。
責任を引き受けたとき 「 仏さま 」 という存在を
微かに感じ取れるのでしょう。
今週はこのことを考えてみたいと思います。
楽しむとき 仏はかなたに去る
チョット早めですが、24日所用があり、早めの です。
この言葉は、お釈迦さまの言葉です。
また違った表現ですが、三浦先生からもよくお聞きしていました。
先生と寝起きをともにしていると、一緒にいるというだけで
先生を身近に感じてしまいます。
「 一緒におっても、悩まない人は
自分にとっては遠い存在なんですよ、
遠くにおっても、悩んで訪ねてくる人の方が
自分のそばにいるのと同じなんですよ ! 」
一緒にいたとき、この言葉はとても 「 痛い 」 言葉でした。
この言葉も、年齢を重ねるごとに響いてきます。
若いときの価値基準からすると少しずつ変わってきます。
ただ、楽しくて面白い人が、いつも一緒にいて嬉しいのですが、
ただ、それだけでは物足りなくなってきます。
やはり、人生を語り、ともに共感しあえる人が身近に感じてきます。
苦労を重ねるごとに、人生の深みもわかってきます。
いかんとも、年齢にはかないません。
その年になってこないとわからないことがたくさん出てきます。
その年はその年での大問題なのです。
その問題に真剣に取り組むか、逃げるかの違いで、
仏さまは近くにもあり、遠くに去ってしまうものです。
お釈迦さまもどんなに私の近くにおろうとも
悩まない人は私にとっては遠い人なのです。
と、弟子たちを叱咤する意味でもこの言葉を述べておられます。
苦しむとき、仏は近くにあり
楽しむとき 仏はかなたに去る
悩みがないときは 「 宗教 」 ということも必要ないのです。
生きるということを真剣に考えたとき 「 悩み 」 は必ず出てきます。
「 楽しむ 」 とは現実から逃避していることです。
今の苦しい世界から逃げ出してしまおうとする、娯楽とかでごまかして
その時はそれでいいのですが、どうにもこうにもならいことになってきます。
カラオケやスポーツで誤魔化せる間はそれでいいのです。
( 仏さまはかなたに去っています )
苦しみを引き受けたとき、そこに仏さまはいらっしゃるのです。
三浦先生が、
『 地獄に仏 』 というでしょう。
極楽にはいないのですよ。
八方塞がりでどうにもならないときにしか、
仏さまはいらっしゃらないのですよ !
と、実感を込めてお話しされていました。
責任を引き受けたとき 「 仏さま 」 という存在を
微かに感じ取れるのでしょう。
今週はこのことを考えてみたいと思います。