昨日、4月8日は 「 花まつり 」
お釈迦さまのお誕生日です。
それにちなんで、昨日の京都新聞
「 名品手帳 」 は
『 紺紙金銀字華厳経第七十一 』
が掲載されていました。
ちょうどその所が 「 善財童子 」 の
求道物語を絵画化したものでした。
この物語は 「 善財童子 」 の求道の
過程で五十三人の善知識を訪ねるという、
はなしです。
その中には、お坊さんだけではなく、
農民であったり、漁師であったり、と
どんな姿のものでも仏道に導くものは
善知識といわれるのです。
そして、この物語が 「 東海道五十三次 」 の
はなしの原型になっているのです。
ちょうど今読んでいる 「 十地経 」 が
善知識の話が出てきておりまして、
とても身近に感じ、
そのせいかもしれませんが、
今朝は、とても早く目が覚め、
その華厳経を鉛筆書きですけど
写経をしました。
読んだだけでは通り過ぎていく言葉も
書いてみると、またしっくりくるのです。
今までは、お経というと漢字の羅列、
それがなかなか、身に入ってこなかったのです。
ところが、今日は聞いた言葉がとてもたくさん出てきて、
お経が … ? わからないけど、
読めたというか、すらすらと書けて、
文字の組み合わせ、切るところ
一つの意味を成しているところが、
素直に、す~っと 入ってきました。
いま、読んでいる所では 十地経の、
友達が一番大事だと 、
それは普通の友達ではなく、師も含んでいる。
そのことを善知識という。 善き知識
これは学問の指導者という意味ではなく、
人生の指導者ということです。
この善知識も外から決めるのではなく、
自分は大学の名誉教授だといってみたところで、
求める人との出会いがなければ、
善知識とは言われないのです。
それは偶然に、 一つの邂逅というような
ある時は、子供から教えられるときもあるし、
親から教えられる場合もある。
だから、道を求めている人にとっては
なにが、善知識になるかわからないのです。
ニュートンにとっては 「 リンゴ 」 が
善知識ということでしょう。
それは棚から牡丹餅のように
降ってくるものではなく、
やはり、そこには、虎視眈々というか
求めている心が常になければ 、
「 リンゴが落ちた 」 ということが
善知識にはならないのです。
ま~ しかし、
今日は、とてもうれしかったのは
お釈迦さまの降誕会にお経が読めた、
そして、書いて、 また書いて
読んで書いて、わからないけど
心に響くものがあったのです。
写経ということも、
初めて意味のあることだとわかりました。
パソコンもいいけど、
手で書く、筆の方がいいかもしれませんが、
今は、鉛筆がとてもシックリ手になじんで、
書いている感触がとてもいいのです。
進み方はとても遅い !!!
しかし、やっていることそれ自体が
楽しいので、 ま~~いいかと
一歩ずつです。