本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

善財童子

2014-04-09 21:40:31 | 住職の活動日記

 昨日、4月8日は 「 花まつり 」

お釈迦さまのお誕生日です。

 それにちなんで、昨日の京都新聞

「 名品手帳 」 は

 『 紺紙金銀字華厳経第七十一 』

が掲載されていました。

 ちょうどその所が 「 善財童子 」 の

求道物語を絵画化したものでした。

 

 この物語は 「 善財童子 」 の求道の

過程で五十三人の善知識を訪ねるという、

はなしです。

 その中には、お坊さんだけではなく、

農民であったり、漁師であったり、と

どんな姿のものでも仏道に導くものは

善知識といわれるのです。

 そして、この物語が 「 東海道五十三次 」 の

はなしの原型になっているのです。

 

 ちょうど今読んでいる 「 十地経 」 が

善知識の話が出てきておりまして、

とても身近に感じ、

そのせいかもしれませんが、

今朝は、とても早く目が覚め、

その華厳経を鉛筆書きですけど

写経をしました。

 読んだだけでは通り過ぎていく言葉も

書いてみると、またしっくりくるのです。

 今までは、お経というと漢字の羅列、

それがなかなか、身に入ってこなかったのです。

 ところが、今日は聞いた言葉がとてもたくさん出てきて、

お経が … ?  わからないけど、

読めたというか、すらすらと書けて、

文字の組み合わせ、切るところ

一つの意味を成しているところが、

素直に、す~っと 入ってきました。

 

 いま、読んでいる所では  十地経の、

友達が一番大事だと 、

それは普通の友達ではなく、師も含んでいる。

そのことを善知識という。 善き知識

これは学問の指導者という意味ではなく、

人生の指導者ということです。

 この善知識も外から決めるのではなく、

自分は大学の名誉教授だといってみたところで、

求める人との出会いがなければ、

善知識とは言われないのです。

 それは偶然に、 一つの邂逅というような

ある時は、子供から教えられるときもあるし、

親から教えられる場合もある。

 だから、道を求めている人にとっては

なにが、善知識になるかわからないのです。

 

 ニュートンにとっては 「 リンゴ 」 が

善知識ということでしょう。

 それは棚から牡丹餅のように

降ってくるものではなく、

やはり、そこには、虎視眈々というか

求めている心が常になければ 、

「 リンゴが落ちた 」 ということが

善知識にはならないのです。

 

 ま~  しかし、

今日は、とてもうれしかったのは

お釈迦さまの降誕会にお経が読めた、

そして、書いて、 また書いて

読んで書いて、わからないけど

心に響くものがあったのです。

 

 写経ということも、

初めて意味のあることだとわかりました。

パソコンもいいけど、

手で書く、筆の方がいいかもしれませんが、

今は、鉛筆がとてもシックリ手になじんで、

書いている感触がとてもいいのです。

 

 進み方はとても遅い !!!

しかし、やっていることそれ自体が

楽しいので、  ま~~いいかと

一歩ずつです。

 

 

 

 

コメント
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