本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

成道会(じょうどうえ)

2017-12-08 15:25:33 | 住職の活動日記

12月8日は

お釈迦さまがさとりを開かれた日、

禅宗では

臘八接心(ろうはちせっしん)

といって、12月1にちから8日まで

不眠不休で座禅をします。

 

 

今日の小山園のウインドーには

「看看臘月尽くす」

と書いてありました。

看よ看よ(みよみよ)

臘月(12月)尽く(つく)

(みるみるうちに12月が終わり

 一年が暮れようとしている)

 

臘月とは12月のことで

成道会を臘八(ろうはち)とも

いいます。

12月8日ということです。

 

六年間の苦行の後

苦行の無意味さを知って

斎戒沐浴して

村娘のスジャータから乳粥を頂き

ピッパラ樹の下で瞑想に入られます

 

 

祖父も気にっていた仏像ですが

私なりに思うのは、

苦行の後、乳粥を頂き

瞑想に入られるその時の姿では

 

 

苦行をやり切って無意味さを知った

そのなんとも穏やかな表情です。

 

成道も正式には降魔成道

色々の魔の誘惑を降し

さとりにいたる道を成した

ということでしょう。

本当の人、本来の人間に成る

道を見つけたということでしょう。

さとりを開いたということで

お釈迦さまが坐られたピッパラ樹は

さとり(菩提)の木ということで

菩提樹と呼ばれるようになるのです。

 

さとりを開かれた時、

ふと思われるのです

自分でさとったというけど、

自分の方がおかしいのではないかと

多数決でいけば

迷っている方が多いので

一人だけさとったといっても

それを証明する仏がいるわけです

そこに十方諸仏というものが

出てくるのです

 

こういう喩があったと思うのですが

ある島に頭のはげた猿がいた

そこに一匹だけ頭に毛のある猿が

出てきたというのです

それを見て皆が笑ったと、

さとりを開いたといっても

周りを見れば皆が迷っている

だから迷った方から見れば

さとりを開いたという方が

おかしいのではないか

というこもでてくるのです。

 

そこで、

そのさとりを証明するためには

それを証明する仏が

必要ではないかと、

それで経典には

十方諸仏が証明すると、

十方諸仏といってもそれは十方衆生

ということです

十方衆生は未来の十方諸仏です

 

だから、お経の最後の文句には

必ず、

「衆生と共に」ということが

でてきます

この言葉がないと

お釈迦さまのさとりを証明する人が

いなくなってしまいます

 

だから自分一人が仏になる

さとりを開くというのでなしに

自分のさとりを

証明してもらうためには

必ず衆生ということが

大切なのです。

 

またこういうこともあります

お釈迦様がさとりを開いたとき

「奇異なるかな奇異なるかな

 山川草木悉皆成仏」

と、おっしゃたと、

さとってみたら自分だけでなかったと

草や木もすべてがさとっていたと

自分が一番遅かった、と

こういうことも経典には出て来ます。

 

こういうことは

個人一人のさとりで駄目なんだと

自分だけがさとったということは

独りよがりのさとりではないかと

人の苦しんどることが苦にならん

人が迷っていることが

苦にならんということでしょう

 

そこに成道という言葉は

とても意味があると思います。

道が完成して救われるのではない

道を求めることに救われる

道を求めるような立場に立った

ということが救い

ということなのでしょう。

 

たどりつくということが

目的ということではなく

その道にあって一歩一歩

歩む、歩み続けるということが

さとりということだと思います。

「さとった」

なんていっているのは

なんとものんきな話ですね。

 

 

打って変わって今日はしとしと雨

お茶の花も今がさかり

 

 

美しく咲いています。

 

静かに息を整え坐りました。

 

 

 

 

 

コメント
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