本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

表業と無表業

2018-01-06 20:56:37 | 住職の活動日記

「1個の不良品が信頼を失う」

という記事を京都新聞で見ました。

書かれたのは、

NHKのTVドラマ

「マチ工場のオンナ」の主人公

諏訪貴子さんです。

 

最近気になっていたのは

日本の信頼を揺るがすような

トップ企業の不正問題です。

何故こういう事が起きるのだろう?

当たり前にあたり前のことを

していたら

何の問題も起こらないのに

と思っていたのです。

 

諏訪さんの言葉によると

不正をしろと命令する社長はいない

ところが業務の細分化で

効率が要求され、

目標値が定められていることだと

指摘しておられます。

 

そして、ものづくりの現場で、

「職人が持っていたプロ意識や

技術が継承されないのではないか」

との指摘もあると、

その大きな要因は「標準化」だ、と

 

ふと思ったのですが

仏教の中に表業(ひょうごう)と

無表業(むひょうごう)という

ことがあります。

表業とは読んで字の如く

表に表れた業ということで

見たり聞いたり行たりと

私たちが普段行っていることです。

ところが、

無表業ということになると

その反対で、表にはあらわれない業

今、実際に行っていなくても

そのことをしていないということは

いえないということです。

 

たとえば、

病気で会社を休んだ

しかし、出ていなくても無表の業を

行なっているということです

また、

志を起こしてお坊さんの修行をする

一端その場に身を置くと

夜寝ている時でもご飯を食べている

その時でも、

ちゃんとお坊さんの修行をしている

ということになるのです。

 

また反対に、

こういう事も聞きました

何も

パチンコや競馬というギャンブルが

悪いのではない

そういう事をやりだすと

そういう頭になってくることが

一番、怖いことなのだと

 

志を起こした時は

そういう頭になっているので

すべてのことが

お坊さんの修行になってくる

わけです。

反対に、

一発を狙うというか

楽して得したいと思うか

そういう頭になって来ることの

恐さでしょう

 

そのことを無表業というのでしょう

誤魔化そうと思って

やっていることはないのです

ところが、

効率化とか標準化というなかで

知らず知らずのうちに

心の中は

形さえ同じであればいいだろうと

中の品質より

さしあたり似たようなもので

作ればその方が効率がいい

 

何も知らずに

ただ、効率よくそこそこのもので

あればという

無表業の心が

いつのまにか浸透していき

ついには表にあらわれる

表業となって

製品を作ることに表れてくる

そこが一番恐いところです。

 

日本人の一番素晴らしい

誤魔化さないウソをつかない

本物を作るということが

どこかで歪を生み出してきている

ような気がしてなりません。

 

目に見える形にとらわれる

表業ということだけに

中心を置くとどこかで

しずかに歪んでくるようです

目に見えない

無表業の大切さを忘れてくると

最初のうちは何とか

つくろうのですが、次第に

大きな間違いをするようになてくる

のではないでしょうか。

 

「不良品ゼロ+不良品ゼロ=

  信頼無限大」

「不良品ゼロ+不良品1=

  信頼ゼロ」

と、諏訪さんはおっしゃっています

 

一つぐらいいいのでは

と思うのですが、

一つぐらいという心が

やがて大きな間違いという表業に

なってあらわれてくるのです。

 

最後に諏訪さんは

「努力不足の製品を人前に出す

 ものは、いずれ淘汰される」

という先代の言葉を胸にきざんで

日々励んでおられるという事です。

 

表業と無表業

表にあらわれる表業は

事実あらわれるの出来に掛けますが

その根底に持っている

無表業ということも注意深く

心しておかないと

大きな問題も起こすようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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