本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間が迷うと世界が狂う

2018-01-21 20:11:55 | 住職の活動日記

「人身受け難し、今すでに受く。

 仏法聞き難し、今すでに聞く。

 この身今生において度せずんば

 さらにいずれの生においてか

 この身を度せん」

 

と、開経偈は始まります。

人身受け難し、

人の生を受けることは大変なこと

経典では一文ですが、

インドの方では丁寧に具体的に

述べています。

牛に生れなくてよかった、

馬に、羊に、猫に、犬にと

ずっと羅列して、

いかに人間に生れることの難しさ

を説いています。

 

仏法聞き難し、

ということでも

お釈迦さまの後に生れてよかった

お釈迦さまの前に生れたら

教えを聞くことができない、と

そして、

教えを聞ける境遇に生れたことを

言っています。

「度」ということは

サンズイを付けて「渡」という字です

いただいた命は

必ずこの代において

この迷いの世界を渡って

仏の世界へ渡って行こうという

誓いの言葉です。

 

生れてしまうと

当たり前になってしまうのですが

人として生まれることの

ただごとではないということを

重大に受け止めているのです。

 

そこには無数の縁によって

私たちは生まれてきています。

数代前のご先祖さまが一人欠けても

そのご縁はつながらなくて

今の私たちは生まれてはいません。

 

無数の縁によって生じる

ということを知る

それを智慧といいます。

自分は一人ではないのだ

無数の縁のつながりの中に

生れてきたのだ。

 

しかし、ややもすると

一人で何でもできると

自分は誰の世話にもならず

一人で生きるのだと豪語して

はばかりません。

 

それが高じてくると

〇〇ファーストとか自分が一番

我が国が一番とか言いだし

自分さえよければいいということが

まかり通ってしまいます。

 

しずかによく考えて見ると

人も物も何一つとってみても

私一人で存在するなんてことは

ありえないのです。

他のお陰によって

私たちは生きることができる。

その究極の境地は

「忘己利他」

(己を忘れ他のために尽くすは

慈悲の極みなり)

ということです。

 

他ということを忘れた時

人は狂ってきます。

こういうことがあります。

「一人即一切命、一切命即一人」

生命40億年の全史は私一人に集約

されている、ということです。

人間は他の命を

食べることはあっても

食べられることはありません。

あらゆる命を集めて自分としている

自分一人に

あらゆる命を託されている

といってもいいでしょう。

 

ですから、

私たちが迷い

自分さえよければいいという

考えになると、

全生物が巻き添えを食う

ということになります。

すべての命を荷っているという

責任と自覚が、

謙虚に自信を持って歩む

私たちのあり方があるように

思います。

 

 

 

 

 

 

 

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