本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

道というものに終わりはない

2018-05-09 20:26:54 | 十地経

『十地経講義』の中で

常に出てくることですが、

「道」ということ、

 

道というものは無限に進むもの

道ということは終いということはない

人間は休みたいけど

その人が道を見出すなら、

道そのものが休ません。

休ませんというと、

もはやエネルギーが尽きて

へとへとになるかというと

歩むと同時に歩む力が

そこに出てくるんです。

歩むと、歩むことによって

歩み得る力がそこに出てくる。

そういうものが、道とか橋とか

いわれるものです。

 

今ならおぼろげながら

わかるような気がします。

若い頃、

百日間の修行が終わり

これでやっと一休みと

思った途端、

明日から御影堂へ行きなさい

ということで

修行がそのまま続くというか

それよりももっとハードな生活が

始まりました。

休みなくいつまで続くのだろう?

重い責任と寝る間もない仕事

しかし、

ある時からこの毎日の仕事が

生き甲斐というか、

やらねばという使命感というか

そういうものがわき出て来て

一日の時間がとても貴重なものに

なってきました。

 

自坊に帰ってからも

寺の修復事業となると

苦しい反面やり甲斐のある

楽しいものにも思えてきます。

 

ふと休みたいと思うのですが

そういう思いだけであって

事実は、身体は

日々の作務に明け暮れる

という毎日で

やればやるほどアイデアというか

いろいろ知恵が出てくるものです。

 

「道」ということも

仏教では「道心」とか「道場」

という言葉で出てきます。

最澄も『山家学生式』で

「国宝とは道心なり

道心ある人を名づけて国宝という」

とか、

「道心の中に衣食(えじき)あり」

とも、

僧侶としての

方向を示しておられます。

 

道場ということも

修行道場というように

本来はお寺のことを指したのです

今では、柔道とか剣道の道場を

もっぱら言うようです。

柔術が柔道になり

剣術が剣道になり、と

術が道になった。

そこにはただの技術ではなく

己を修めるという

自分との煩悩の戦い、エゴとの戦い

そういう場ということで

道を付けるようになったのでしょう。

 

仏道といって

あえて仏とはいわないで

仏道と言います。

そこには「仏」さとりといっても

仏という固定したものではなく

仏道という

常に仏の道を歩んでいる者

ということなのです。

 

さらに『十地経の講義』では

続けて、

 

道元禅師の言葉に、

「何々し、もて行く」という

こういうことをよく使われておる

仏になってしまう…。

仏になりもて行く

なりつつ行くというんです。

こういう言い方が

一つの過程ということを表している

ように思います。

さとりというところに

腰を落ち着けるんじゃない。

さとったところから

また修行していくという。

仏というものがあるんじゃない

仏というものになっていく。

鈴木大拙がよく言っているように

英語のingという言葉

つまり進行形という意味です。

 

いつまで続く修行なのか、

と思っていたことが

ここまで修行したらこれでお終い

というのではなく、

そこからまた修行が始まる

死ぬまで歩み続けるということが

仏の姿なのでしょう。

仏という存在を固定的に捉える

そこに私たちの迷いがあるようです

 

「一服するのは死ぬときでいい」

よく三浦先生に叱咤されたものです

その声を耳にきざみ

遅々として歩みは遅いが

一歩一歩、足を止めてはいけない

と、新たに刻みます。

 

 

 

 

 

 

 

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