本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

AMAMIのSEGODON

2019-03-27 14:28:01 | 住職の活動日記

文久元年(1861)11月20日

妻愛加那と長男菊次郎のために

3度目の家を建てます。

 

 

南洲流謫(るたく)跡といい

西郷隆盛が3度目の潜居地です。

幕府から追われて身を隠すため

この地に菊池源吾という名前で

龍郷集落の白間地区に

身を落ち着けます。

この名前も反対に読むと

吾の源は菊池なり、

となり菊池一族の流れということ

のようです。

 

やって来た当初は

随分と悩みも多く苦労もされ

周りからは

眼光鋭く体格も大きく暴れ者の

ように見られていたそうです。

そこで、

瀧家の娘、愛加那さんと出遇い

相思相愛となり

心も落ち着き島を愛し

妻愛加那さんも長男菊次郎も

愛され幸せな時を過ごされました。

 

 

西郷さんが島に着かれた時

船をつなぎ止めた大きな松の木

その松は枯れ、その木から作ったのが

このお二人のお姿です。

 

 

小さいながらも当時の面影を

残しています。

この時は藩からの援助もあり

6石の扶持があり

子供が生れてからは12石になった

ということです。

それで、生活が困らないようにと

愛加那さんには田畑を与え

薩摩からの召喚命令を受けたあとも

いろいろと気を使われて

島の役人にも常々手紙を送り

めんどうをたのんでおられました。

 

しかし、

召喚されたものの

島津久光と意見が合わず

今度は罪人として徳之島へ流され

それでも罪が軽いとして

さらに沖永良部まで

流されてしまいます。

この時、愛加那さんには長女の

菊草も生まれています。

 

西郷さんの会いに来てはならない

という言葉を振り切って

愛加那さんは

菊次郎と生まれたばかりの菊草を

連れて万難を排して

会いに行かれています。

 

長男菊次郎さんは

本家に引き取られ

12歳の時にはアリカへ留学

西南戦争では片足を(膝から下)

失われ、

それからは広い見識と語学力で

台湾では「西郷堤」を造り

毎年の川の氾濫から民を守られ

京都市長になってからは

三大改革という

烏丸通を広げ、

浄水を求めて第二疎水の開削

それによって上水道の整備

大量の水による電力の増加で事業

の活性化など

その時の国の資金難から

フランスと交渉して国際援助を

引き出しておられます。

そういう広い視野を持った方だった

ようです。

 

 

愛加那さんは

畑を耕している最中に

雨に打たれ突然亡くなられました

加那というのは

愛おしい人という意味で

日本名では「龍愛子」というそうです

般若心経を唱えその御苦労を

偲んでいました。

 

西郷さんは罪を解かれ

鹿児島へ帰る途中奄美に立ち寄られ

3日ほど家族で過ごされ

それが愛加那さんとの最後の

別れになってしまったようです。

 

 

流謫跡にはブーゲンビリアが

美しく咲いていました。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする