本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

定(じょう)ということ

2020-02-07 20:35:39 | 十地経

「定」(てい)とも読みますが

仏教読みでは「じょう」と読みます

この反対語は「散」(さん)です

読んで字のごとく、ちる

心が定まらず、あれやこれやと

見たもの聞いたことに

心が動かされる

落ち着かない状態です。

ですから「定」は心が一つに

さだまった状態ということです。

 

大きくは「定」という一括りです

が、

詳しくは七つの異名を持っています

その中で有名なのが

「禅」という

ドゥヒヤーナを禅那と音写し

その意味は静慮といいます

それから「三昧」

サマーディを三昧と音写し

意味は等持(とうじ)と訳し

心を平等にたもつということです

京都に「等持院」という

お寺がありますが、

この意味からとったものです。

 

等しいというのは偏らない

ということで、

人間は調子がいいとウキウキし、

それを「掉挙」(じょうこ)といい

反対に思い通りにいかないと

心が沈みやる気をなくします

それを「惛沈」(こんじん)と

いいます

その二つを離れ心が動かされない

それを「定」といいます。

 

それから定の中で面白い言葉に

「心一境性」

(しんいっきょうしょう)

ということがあります

心が一つの境(対象)に向けて

集中するということです。

 

「定」ということも

厳密に詳しく区別しています

総じて心が散らばらない

一つのことに集中する

ということでは変わりません。

 

今日も久しぶりに

「ヨガの教室」へ行きました

今では運動になっていますが

本来は心を静め心を一点に止める

ということが本来の目的です

ゆっくりした呼吸で心を整え

身体を動かしながら

段々と深い瞑想へと入っていく

のですが

今は体を動かす体操で終わり

最後に少しだけ瞑想するのです

 

いきなり瞑想して「定」に入れ

といわれてもすぐには出来ない

ものです

そこにはちょっと痛いくらい

身体を動かすと自然に

心も体も一緒になりいい状態に

なっていきます

そういう意味ではヨーガと

いうことも

大事な意味を持っています

ただそこで終わっては

いけないのですが、

 

心が一点に集中するというと

集中した対象が語ってくる

胸を開いてくるということが

あります

あまりいい例ではありませんが

砂利の中の小さな落ち葉

パッと見ただけでは見えない

ということがあります

それで作業を進めていきだすと

次第にこんなにもあったのかと

あの小さな落ち葉が

ここにもあそこにもと

そこら中に見えてくるのです

目を凝らしてみる

ということがありますが

よく見れば、です

今まで感じなかったものが

語りかけるように

見えてくるということがあります

 

東寺には「観智院」という

塔頭がありますが、

心を一点に止めて見るというと

あらゆるものが見えてくる

つまり智慧が生まれてくる

ということです

仏教の本来の目的は智慧を生産する

ということです

三昧といっても

ただ心を静かに落ち着ける

ということではなく

観という智慧を生み出す

前段階ということです

三昧が目的ではなく

観のために三昧がある

ということです。

 

安田先生の言葉では

「ものをしてものを語らしめる

 方法が三昧なんだ。

 自分であれこれ理屈をつけずに

 そういう小賢しさを捨てて

 全身がものとなる。

 そうすれば

 ものがもの自身を語ってくる

 それが智慧ですね」

というように述べておられます。

 

 

 

 

 

 

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