本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

秘訣は我慢です!!

2020-04-24 20:20:41 | 住職の活動日記

テレビのインタビューで

仲良しそうなご夫妻

多分私と一緒くらいでしょうか

「結婚43年、

 その仲良しの秘訣は?」

と尋ねられて、即座に奥様は

「我慢です!」

の一言。

なるほどと思いつつも

 

ちょうど『十地経講義』でも

慢という煩悩が出てきていて

「我慢」も煩悩の一つか、と

思い出していました。

 

「慢」という煩悩

貪、瞋、痴、慢、疑、悪見

という六つの根本煩悩の一つです

この慢という煩悩も

なかなか厄介な煩悩の一つで

清純な世界にも活動するという

思わぬ一面を持ています

その根本は比較するということで

起こって来る煩悩です。

 

慢の中にも「七慢」といって

七つあります

その中の一つが「我慢」という

煩悩です

普通に使う「我慢する」という

意味とは少し違ってきます

 

何故か分からないのですが

人を見るとすぐ比べたくなるのが

人間の本性です

『唯識』というお経の中には

慢ということを定義して

 

「己を恃(タノ)みて他に於て

高挙(コウキョ)するを性と為す」

 

と書いてあります。

自分をたのんでとありますから

自分の能力とか地位とか身体など

いろいろの面に自信をもち

それを拠り所にして他と比較する

ということです

 

おもしろいもので

比べる相手があまりにも

かけ離れていると

慢という煩悩も起こらないのです

平社員の時、社長に対しては

あまりこの慢は起こりません

友達と出世して

お互い係長とかなると

すぐさまこの慢という煩悩が

起き上がってきます

ですから、比べる水準が同じ

というところに

慢という煩悩が起こってくる

ということです。

 

そこで、

慢、過慢、慢過慢、という

一連の慢というものがあります

慢というのは「等慢」ともいい

等しいというのですから

相手も自分も同じだと

同じであれば比べあうことも

ないように思うのですが

相手は自分より上ではない

自分も相手と比べて下ではない

と、

相手を上げまいとするし

自分は下がるまいとする

そういう心が根底にあるので

慢(等慢)というのです

 

過慢というのは

同じであるのに自分の方が上だ

というのです

また、自分が下であるのに

まあ、一緒だというのも

この過慢になります

 

慢過慢(マンカマン)これは、

自分が下でもあるにもかかわらず

自分の方が上だというのです

これも、自惚れてくると

見境が付かなくなります

何でも相手より下手なくせして

自分の方がいいと思っている人は

案外いるものです

まあ、それほど人間というのは

自惚れが強い生き物だ

とも言えます。

 

それに卑慢、我慢、邪慢、増上慢

を加えて「七慢」といいます

 

そこで、

何も比べるものがなくなると

というか何を比べても

負けてしまう、卑下してしまう

そういうのを「卑慢」といいます

コンプレックスがこれにあたり

劣等感ですね。

師匠から、お前は駄目だ!

といわれて素直にそうですかと

駄目なものは駄目なのだと

受け入れればいいのですが

心の中には負けたくない心がある

しかし、負けたくない心で

負けている

それがなぜ煩悩かというと

明るく負ければいいのですが

自分は駄目だと暗くなる

暗くなるというところに

慢という煩悩が起きているのです

 

次に出てくるのが、

「我慢」です

負けているのに

いや、ぜったに負けてないと

頑張っている姿が我慢です

剛情我慢というか

なにがなんでも負けまいと

いうのを我慢といいます

 

「邪慢」というのも

非常に面白い煩悩で

邪というのは有るものを無いと

否定するのもですが

反対に無いものを有るというのも

邪ということです

自分には能力も技術もない

相手にはそれがある

これを比べるというのです

ひどい話ですが

それでも負けまいとして

頑張っている、これが邪慢

心の中では自分はできる、と

思い込んでいるのです

いざやればできない

そういう時に邪という

無いものを有るという慢なのです

 

最後が「増上慢」

人間が持っているいろいろの能力

それを増上といいます

英語がうまい、パソコンが上手、

ゴルフが上手い、歌が上手とか

いろいろあります

そういう能力を比べるというのが

増上慢です

これも、英語が得意というのと

ゴルフが上手いというのでは

比べる対象にはなりません

ゴルフとか麻雀とかは

遊びというところで同じになり

慢という心が起こってきます

ゴルフは金を食うばかりで

麻雀は儲かるとかいって

比べてくるのです

 

しかし、

この「慢」という煩悩の

こわいところは

遊びとかだけではなく

学問や芸術そして求道の中にも

起こってくるということです

あの人のさとりより自分の方が

上だとかいって比べる

信仰のあり方まで比べてくる

ところに

慢という煩悩のこわさがあります

 

『十地経』のなかでも

その信仰に起こってくる慢の対治

ということを強く言っています

その慢の対治ということが

地から地へと順に進んでいく

ことになります

この「慢」の対治ということは

難中の難、ともいえる

大きな課題となってきます

『十地経』の全編を通しての

問題が「慢」といっても

いいのではないかと思います。

 

 

 

 

 

コメント
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