本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

忍は認がないと成り立たない

2021-01-13 20:58:27 | 十地経

繰り返し

「無生法忍」ということが

出てきます。

普通に考えると

また同じ話か、ということに

なるのですが

安田先生の話は

たとえていうとオーケストラの

ようなもので、

「無生法忍」という主題があれば

いろいろなリズムで繰り返し

繰り返し表現されます。

私たちのような

一面性だけではないのです。

 

それでこの前は、

まあ無生ということで忍という

字がついたですね。

この忍という字はね、

耐えるね、堪忍やね。

耐えるとか…、

苦しみに耐える、迫害に耐える

という意味の耐えることです。

事業にも耐えるんでしょう。

ならぬ堪忍、するが堪忍と、

そういう忍もあるけど、

 

もう一つ、

忍には智という意味がある。

智という忍についていうと

言偏がある認です。

言偏のある認の意味が智なんです

しかし言偏のない忍というと

耐えるということになる。

だから二つ兼ねた字なんです。

珍しい字ですね。

 

だからね、この、

智でなければ耐えるということは

できんのです。

ただ我慢するといったら

早や我慢しとるという限り、

それは耐えておらんのです。

頑張っとるんだから。

頑張っとれば耐えたことにならん

でしょう。

智があれば自然に耐えられるね。

智でなければ、

耐えるということも

成り立たんのじゃないか。

ただ我慢しとるというだけなら

限度がある。

智というもので初めて、

言偏のある認というものによって

言偏のない忍が成り立つ。

 

ここから、『観無量寿経』という

経典から、続くのですが、

この経典は

我が子からひどい仕打ちを受ける

母親の苦労を描いた物語です。

 

「それでこれは漢文ですけど

『観無量寿経』という経典があって

あれは女人にしてかつ凡夫である

韋提希イダイケという、

これは王舎城の后ですけど

それが主人公になっている。

そして大きな悲劇ね。

悲劇というのは日常事件ですけど

わがまま生まれてきたというのは

不良児や。

そういう事件で親が悩む、

それはどこにでもあることで

別に珍しいことじゃないね。

新聞を見れば毎日出とる事件です

それが、仏法の縁になった、

こういう唯一の事件です。

それで大乗経典はみな取り上げた

 

それ自身としては悲劇やね。

悲劇というのは何であるか

というと、

思惟の絶頂や、考え方の。

もうどん詰まりやね。

絶望ですね、家庭の、人生生活の

それを転じて、…

 

悲劇というのはトラジディー

といいます、ギリシャ語で

それを転じてコメディーね。

コメディーというのは喜劇と

いうんですけどね。

悲劇を転じて喜劇にしたと。

喜劇というのは普通にいう

笑い話じゃないんです。

ダンテの『神曲』を

ディバイン・コメディと訳します

ダンテの『神曲』にあたるような

事件が王舎城の悲劇なんです。

 

その縁によって一つのさっきいった

ようにですね、

信仰の目を開いた。

そのときに廓然大悟して無生法忍を

得たと、

だから非常に、この、

凡夫である女人が廓然大悟した

一つのさとりを得たと、

仏と同じさとりを得たと。」

 

それからさらに、

廓然大悟ということについて

これは禅宗の言葉です

廓という字は、とりで、とか

くるわという意味や大きいという

ことから、

さとりの世界は広くて大きくて

平等で、凡聖の差別がない

という意味になります。

そして、無生法忍ということが

展開していきます。

 

一つの言葉を

あっちからもこっちからも

いろいろのことを題材にして

話していかれます。

ですから、

同じ無生法忍ということも

何回聞いても

また新たな問題として考え

させられるということです。

 

 

 

 

 

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