本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

苦と苦聖諦

2021-04-05 20:36:23 | 十地経

お釈迦さまが最初に説かれた教え

(初転法輪)は

苦・集・滅・道の四聖諦と

いわれています。

四つの正しい真理ということです

「諦」タイという字は

インドの言葉のサトヤの翻訳で

真理という意味です。

「諦」は、あきらめる、とも

読みます

これは仕方なく

あきらめるのではなく

明らかに見る、ということで

本当のことを明らかに見たら

裏表全て見切ったら、というか

そういう本当の姿を見たら

頷いて諦めることが出来る

ということです。

 

「何かこれは一番大事なことだと

思うんですよ。

原始仏教以来ね、苦聖諦と

こういうでしょう。

あの諦というのは真理という

意味ですね。

そうあることなんですわ、

真理というのは。

それがそれであることなんです。

その一つの真理として、

一切は苦であるというのが

第一の真理として掲げられて

いますね。

面白いことですね。

 

我々は苦しんどるんですけど

我々は苦をもたんものは

おらんけどね、

しかし、苦諦はもっとらんです。

苦であるのは我々の存在だ。

我々にとって苦であるものが

苦諦をもつことが一番大事

なんです。

苦であるものが

苦であるものを知るんです。

自分の真理に目覚めるんです。」

 

というように「苦」それから

「苦諦」ということについて

の話が出てきます。

 

ある人の結婚式の時

僧侶の方が宴席で新郎新婦に

贈る歌ということで、

「水戸黄門の歌」を

披露されました。

「人生楽ありゃ苦もあるさ」

という具合に、

まあ、人生苦もあれば楽もある

それで頑張れということでしょう

僧侶の方が歌われたのが

ちょっと気になったのです。

お釈迦さまも一切は苦であると

最初に説かれている

苦楽半ばではないのだと。

調子よく3番まで歌われましたが

私には選曲ミスではないかと。

 

しかし、

普通にはそうでしょう

苦しい時もあれば楽しい時もある

それが人生だと、

それなのに一切は苦であると

いうのはどういうことかと

ところが、

仏教はそうじゃないんで

現実は私たちは

生きていることに悩んでいる

生きるということが

一つの悩みなんです。

 

これは分かりにくいかも

しれませんが

煩悩ということも同じで

普通に生きている限りは

煩悩はないんです

何か一つの目的をもつ

本当のことを知りたいと

道を求めるとか、

そういう立場になった時に

自分の生きていることが

問題になり、

苦なる存在と感じるし

煩悩ということが明らかに

見えてくるのです。

 

うまくいかないと

苦しいと感じるし

調子よく物事が進めば

こんなに楽しいことはないと

思うのが私たちです。

 

そういうなかお釈迦さまは

母親は自分を生むと

すぐに死んでしまい、

生きもたちは弱肉強食で

弱いものは食べられる存在

そういう幼い時から

見るもの聞くものすべてが

苦の存在として感じとられた

のでしょう。

そういう自分自身を

よく見ていかれたとき

「苦集滅道」という四つの

真理の発見があったのでしょう。

 

そこには、

ただ苦と感じるだけでなく

苦のもとはいろいろな条件の

集まりであり

それを滅するには

八つの道があると

苦を苦聖諦と真理として

捉えられたところに

私たちと違いがあるようです。

 

苦はもっているけど

苦聖諦はもっていないという

違いが私たちにあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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