本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

アトム

2021-04-07 21:10:01 | 十地経

安田先生の講義は仏教のことは

当然のことながら

西洋哲学についても造詣が深く

いろいろな言葉が出てきます

そのことを知っていくのも

大変興味深いものがあります。

 

ここに出てきた「アトム」という

言葉ですけど、

私が知る限りは「鉄腕アトム」とか

原子力のアトム位しか知りませんが

ここで述べられている

「アトム」ということは

哲学の言葉で、

「atom」というギリシャ語で

これ以上分割できないもの

ということで、

これ以上分けられない

事物を構成する微小存在

ということです。

 

そこで講義では

「世界はアトムの構成なんだ。

それが自然だ。自然学です。

善とか悪とかというものは

ありゃせん。

あのギリシャの哲学は自然学から

始まっとるんですから。

自然科学なんか出てきたのは

ルネッサンスですけど。

自然学、哲学や科学と区別のない

自然学というものから出てきて

初めて人間というものが

そこに絶えず対抗するものとして

自覚されてくるわけです。」

 

というように出てきますが、

ここに出てくる「自然学」

ということも、ギリシャ語で

physikeという

哲学の自然現象を扱う部門

ギリシャ哲学では

論理学・倫理学・自然学が

三部門をなしているようです。

physikeも英語ではphysicsで

物理学というというように

いわれています。

 

これがまたややっこしいのは

メタフィジカルといえば

形而上学と、

井上哲次郎という方が

訳されてますが

この言葉がどうも分かりにくい

フィジカルが肉体的であれば

メタがついてその反対

精神的なのもということで

しょうが、それが形而上学と

なんと分かりにくい言葉に

翻訳したものだと思います。

 

講義の続きは

「だけど仏教の方は、苦であると

苦でないような存在は取り扱わん

また、

苦だというようなことは

考えるというと、

それはちょっときつすぎるじゃ

ないかと、

半分ぐらい本当じゃないかと、

苦もあるけど楽もあるのが

本当じゃないかと、

こういうんですが、

それは常識ですわね。

苦も楽も半分ずつというのが

我々の経験ですけど。

 

その経験を破った今の自然学

というものを考えてみると、

苦だの楽だのいうものは

ありゃせんのです。

分子(アトム)の結合がある

だけでしょう。

化学的人間なら。

 

ところが仏教はそうじゃない

んでしょう。

生きとることに悩んどるん

でしょう。

生きとるということが、

一つの悩みなんです。

そういう人間が取り扱われとる

んだ。」

 

というように続きますが、

人間をどのように見ているか

ということを

西洋哲学と対照しながら

仏教の立場を述べておられる

ようです。

 

人間を苦の存在として捉えたのは

宗教の中でも仏教だけのように

思います。

苦なる存在、

生きていることに悩んでいる存在

というようにとらえたのでしょう

生きていることに悩まなかったら

仏教は必要ないとも言えます。

 

何とも難しいのですが

読んだり書いたりまた

ブログにアップしたりと

遅々として進みませんが

繰り返しながら

分からない文にも浸っていると

何となく身に沿ってくるのでは

と思っています。

 

 

 

 

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