本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

刃傷松の廊下と玉の輿のお玉さん

2021-04-21 20:33:28 | 住職の活動日記

元禄14年3月14日

西暦1701年4月21日に

刃傷松の廊下の事件が起こります

起こした浅野長矩は

その日のうちに切腹を

申し付けられます。

あまりにも早いご沙汰で

切られた吉良義央は

お咎めなし、

という事件です。

 

このことから両成敗ではなく

一方的な処置じゃないかと

赤穂義士の討ち入りが

挙行されます。

 

その時の長矩の役職は

勅使饗応という勅使の接待役

というとても重要な役目です。

そのご本人が刃傷沙汰におよぶ

という、

大変なことをしでかしたのです。

 

ということで、

この件にとても立腹した

五代将軍綱吉は即刻

切腹を申し付けたのです。

 

というのは、

綱吉の母は「玉」(桂昌院)

玉さんは家光に見初められ

町家の娘が大奥にまで上がる

という、大出世

そこから「玉の輿」という

言葉も生まれたと言われています

家光がなくなると

一旦は大奥を下がるのですが

我が子綱吉が将軍に着くと

また、大奥に戻り

綱吉のために尽くすのです。

 

綱吉も母玉をとても大切に思い

女性としては最高の位

従一位を授かるよう朝廷に

申し出ます

春日局でもその位までは

なっていません。

 

ここからが勝手な想像ですが

たぶん勅使下向というのは

母玉への従一位の授与がある

日ではなかったかと

思うのです。

その証拠に翌年

元禄15年(1702)2月に

従一位を授与されます

そして、名前も

「藤原光子」というように

藤原姓まで頂いています。

 

振り返って

何故

長矩は刃傷沙汰を

起こしたのでしょう

長矩も勅使饗応役は2度目で

たぶん、慣れていたはず

その時、吉良様は出張で留守

そこで、

吉良様をないがしろにして

事を進めた長矩に対し

吉良様のいけずがあたのでは

ないかと思うのです。

 

怒りの方程式も

最初は「忿」フンという

ムカッときたという怒りですが

それが心に残り捨てられない

すると恨コンという怒りに変わり

それが更に発展すると

悩ノウという怒りに成長し

いよいよ燃え上がってきます

追体験というか

あの言葉とかやり口を思い出し

さらにいかりが燃え上がって来る

そしてついには

害ガイという煩悩まで発展し

刃傷沙汰におよんだ

ということになります。

 

ですから、綱吉にとっては

大切な母への従一位への贈り物を

邪魔されたというか

怪我されたという思いが

その日の内の切腹という

ご沙汰になったのでしょう。

 

綱吉の「生類憐みの令」という

ことも、母玉の信心から出たことで

玉さんも晩年は

お寺への寄進や修復事業に

尽力されています。

そして

宝永2年6月22日(1705.8.11)に

79歳で亡くなっておられます。

刃傷沙汰の4年後です。

 

勝手な想像ですが

赤穂義士の討ち入り

その原因になった

松の廊下の刃傷沙汰

丁度その時の勅使は

お玉さんへの従一位の授与

という役目とすれば

何かしら面白いところで

結びつくのではないかと

思いました。

 

また今日は弘法大師の祥月命日

でもあり、

長矩の命日でもあるという

日なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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