本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ヴァールハイト・アンジッヒ

2022-04-07 20:44:07 | 十地経

この言葉を聞いた時

何かしらこの響きに

意味も分からず

感動したものです

講義の中でも

よく出てくる言葉です

 

Wahrheit an-sich

というドイツ語です

真理それ自身という

仏教では

法性ホッショウという言葉で

出てきます。

 

「真理はそれ自身で

あるものです。

衆生によってあらしめられ

とるのじゃない。

衆生が努力したから

真理が増えたとか、

衆生が否定したから

真理が壊れたというもの

じゃない。

衆生が否定しても

否定されんもの。

人間の努力などというものを

待たんものが真理や。

真理はいつでも

真理自身として、

真理は真理自身によって

支えられとる。

 

大体、法という字が、

支えられとる

という意味なんです。

法性というのは。

支えるという語根から

出来た言葉です。

 

自分で自分をもっとるもの。

火は熱いという時、

火の本質は何かといえば

熱さということです。

熱さは熱さ自身によって

熱さを支えとる。

そういうものが自己自身を

もっとるものです。

そういうものを法性という。

 

火という存在、

火という法の法性は熱さです。

それは

変わらないものでしょう。」

 

なかなか面倒なような

難しいことが続きますが

こういうことを

厳密に見ていかないと

煩悩という問題も

それから真理といいうことも

解明できないのでしょう。

 

法性ということも

法の本質ということで

法そのもの

般若心経にも

「空の相は不増不減」

という言葉で出てきます

空といっても法といっても

同じことです

その姿は増えもしないし

減ることもないといって

いるのです。

更に、

滅することもなく

生じることもない、と

「不生不滅」

という言葉が続きます。

 

ということは人間は

増やして見るか

減らして見ると

なかなか、ものそのもを

自分の好き嫌いを交えないで

見ることはできない

ということです。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

という言葉もあるし

反対に

好きになればあばたも

えくぼに見えてくる

ということがあります。

 

ものそのものを

冷静に好き嫌いを超えて

見るということが

如何に難しいか

ということです。

そういう意味で

ものそのもの、

真理それ自身ということを

知るには

私たちの片寄った見方を

如何に離れるかが

修行といわれるものでしょう

 

こういう問題が次々

でてくるというか

展開していくのが講義の

醍醐味のようです。

 

 

 

 

 

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