本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間の構造として、自利利他がある

2022-04-11 20:28:43 | 十地経

学問というのは

問いを学ぶと書きますが

安田先生の講義も

答えを出していく

というのではなく

問いということを

明らかにしていく

ということだと思います

 

「人間存在というものは

初めから共同体的な

構造をもっとる。

社会的な構造をもっとる。

人間が個人であるなら

何もいらん。

宗教も教育も何もいらん。

なぜ人間を教育せんならん

のかね。

共同体という問題が

あるからだ。

こういうような問題は、

宗教だろうが哲学だろうが

およそ人間というものの

構造が自利利他の構造を

表しとる。

自他の構造をもっとる。

 

これは自利利他ということが

果たして可能であるのか

という問題です。

それから可能だとして

如何に可能であるか。

果たして可能であるか

という問題と、

如何にいて可能か

という問題がちゃんとここに

あるわけです。

 

人間自身の構造がもっとる

問題なんです。

それが自利利他。

これは不可能だという

結論が出ても

止めておけん問題なのだ。

不可能であっても、

じゃ止めておこうと

言えん問題だ。

 

問題を止めるわけに

いかないんで、

問題を解くことのできない

自分の立場を

やめなきゃならん。

 

問題が解けんからといって

問題を捨てるわけに

いかんでしょう。

問題が解けないなら、

それを解くことができない

自分の立場を

変えなきゃならん。

そして

もっと根源的な立場を

見出してこんならん。

 

それが

思想の事業

というものでしょう。

こういうような一つの、

大きな、

これは無上仏道の問題

なんです。

こういう自利と利他とを

完全に解決するから

無上というんでしょう。

無上道だ。

こういうような問題が

ここに出ております。」

 

第七地になってから

ずっと、自利利他、

それから方便ということが

繰り返し出てきます

一つの問題が終わったから

次、ということではなく

いろいろな角度から

また外国ではこういう問題を

どのように扱っているか

というように

なんだか、

音楽でいえばオーケストラ

のような

主題があってその楽譜が

表現を変えながら

繰り返し出てくる

そのような

講義のように思います。

 

そういう問題を温めながら

ずっと講義されていく

そこが

この講義の醍醐味のように

思われます。

 

 

 

コメント
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