本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

純粋行(その日はその日のためにある)

2022-10-13 20:59:18 | 十地経

「純粋行」

何かしら惹かれる言葉ですが

自分に置き換えると

不純粋な行しかないように

思うのです。

でも、

こういうことが

人間の根底にあるのでしょう

 

「純粋行というものが

なければ、生活、

生きとるということが

ないのですから。

純粋行と、

この純粋行というものに

応える、

いかにして純粋行が

可能であるかというような

ところから、

般若とか仏教とか、

宗教というものが

出てくるんです。

 

純粋行というものは、

それ、人生、

つまり人類的課題なんです。

その人類的課題なしに、

仏教とか宗教を持ちだすと

それは天下りということに

なる。

重苦しいものになってしまう

 

人生全体が

一つの問いなんです。

人生というものは

問いを持つというという

ところに人生の意義がある。

 

そういう純粋行というものは

まあ言葉はみなさん

知っとられるけれども、

えー、

それがなかなかできんのです

 

純粋行というものを

明かにするというようなこと

が、これが、

そのためにこの『十地経』

ということが

意味があるんです。

純粋行というものに

応えようとするんです。

 

なすものなくしてなす

というんです。

 

で、純粋行ということが

人生問題ということはね、

あの、

もっと別なことをいえば、

純粋行というのは

何かのために対する手段では

ないという意味なんです。

 

何かの目的のために、

手段としてやるという場合は

それは不純粋行です。

純粋行というものが

必要ないということなら、

純粋行がなければ、

人生が手段になってしまう

でしょう。

 

何のために我々が生きとるか

という問題です。

純粋行がなければ、

人生が手段になってしまう。

純粋行ということを

明かにすることによて人生が

目的自身となるわけです。

 

何のために

生きとるんじゃない、

その日はその日のために

あるんです。

明日のためにある

わけじゃないんだ。

 

我々というのはみんな、

年寄りは過去の習慣で

生きとるし、

青年は未来の夢で生きとって

現在に生きとるものは

おらんでしょ。」

 

 

散歩で見かけた一コマ

野良ちゃんでしょう

エサを頂いています

その横では

サギがおこぼれ頂戴と

いわんばかりに

横目で見つめています

 

このこたちも

今日一日を

一生懸命生きている

生きることが目的のようです

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする