本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

朝に道を聞けば夕べに死んでも可なり

2023-11-29 20:21:32 | 十地経

味ということでしたが

今日のテレビでは

お香の表現も五味という

ことで表すようです

甘い、苦い、酸っぱい、

鹹というような、

あの有名な蘭奢待ランジャタイ、

織田信長も切り取った

という、

蘭の中には東という字が、

奢の中には大という字が

待の中には寺という字が

隠されています

つまり、東大寺と

この蘭奢待は五味が調和

してるという

優れた香りということです

 

また、味は

法味という言葉もあり

法の味をあじわうという

聞法という聞くという

こともいいますが

法を味わうという

この言葉もいいですね

ただ聞くだけでなく

聞いた教えを味わうという

 

浄土での食事は教えだと

いいます

教えを聞いて喜ぶことが

最高の味ということです

ですから、

味わうということが

非常にいいですね。

 

この

「朝に道を聞けば

夕べに死すとも可なり」

という、

何か、鋭いものを

突き付けられる

迫ってくるような言葉です

 

講義は、

「生きとるという意味がね

やっぱりその日常時間に

あるのじゃないでしょうか

たとえてみたら、

『朝に道を聞いて、

夕に死んでも可なり』

という。

瞬間の命ですね。

それでもそこに、

その、

道を聞く、道に触れる、

道味、道の味ですね、

そういうものを知ったら

 

それはもう、

永遠に生きたという

意味だと。

朝死んでも、夕死んでも、

後悔はないと。

そういうような意味を

持ってるんです、

平常時には。

 

どの時間をとってみても

朝だけ

『朝に道を聞いて』て、

夕に聞いたら駄目だという

のじゃないんです。

どの時間をとってみても、

そういう味を持っとる。

公開されてるんです。

 

けど誰も、

味の方では自分を隠さずに

公開しているけれど、

それを味わう人間は

一人もおらん。

外のことばかり考えている

 

そのような意味があって、

平常時の持っとる何か

味ですね。

それも良い味もあるけど

悪い味もあるんじゃ

ないかと思うです。ええ。

 

『あーあ、わが一生は

失敗だったと』

というようなときの味だ。

何とも言えん味がある

だろう、そこに。

だからして、

道よりももっと

味がその念念に

あるのじゃないかね。

 

そういうことを…

時間というものはなかなか

面倒なものだ。」

 

ついつい明日に

延ばしに延ばしている

問題は

差し迫っているのですが

何だか空しく過ごしている

昔、よく

「空過者」(くうかしゃ)

と言われたものです

空しく過ごしてしまう

という意味で、

 

ですから、

教えを聞くということは

呑気な話ではなく

差し迫っていることの

再確認ということでしょう

でないと

ついつい後回しにして

何が一番大切なのか

忘れてしまいがちです

ですから、

そこに聞法の大切さが

あるように思います。

 

分かっていたつもりが

本当は

何も分かってなかった

ということの

再確認です。

 

時間の問題は

まだまだ続くのです。

 

 

 

 

 

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