本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

時が存在(朝には朝の存在がある)

2023-11-30 18:09:01 | 十地経

時ということが続きますが

難しいのは

三大阿僧祇の修行という

途方もない時間が

かかるという

しかし、

それも精神的には

一念であるというような

ことが出ていました。

 

面白い話があって

一休さんと蓮如上人のこと

なんですが

お互いに仏法について

語り合うことのできる

間柄だったのです。

 

一休さんがこういう問いを

歌にして発します

 

「極楽は十万億土と

  説くならば

足腰立たぬ婆は行けまじ」

 

極楽浄土は十万億土と

いうのですから遥かに遠い

足腰立たないお婆さんには

行けないのではないかと

すると

すかさず蓮如上人が

こう返します

 

「極楽は十万億土と

  説くなれど

 近道すれば南無の一声」

 

十万億土というのですが

南無という心があれば

一瞬にして着きますよ

というのです。

なかなか面白い、

ここにも平常時の時間と

時計の時間の問題が

あるように思います

 

百年生きても

道に会わなければ

生きたといえるのだろうか

たとえ、

朝に道を聞いて死んでも

道に触れたなら

後悔はないのではないかと

ということがあります。

 

講義では

「念という字が注意される

のは、

非常に大事なことです。

その一念の外に我々の

存在はないんだ。

時が存在だと。

朝の時に朝の存在がある

んだ、こういうわけです。

 

それはあの世界が…

一念一念に動いているのは

私の意識であって、

この外の世界はもう

意識を超えていつでも

続いておるんだと

いうようなことは、

それは考えた話だ。

抽象概念だ。

 

念を超えて、

一念を超えて、

そういう世界を考えるのは

それを自然界という。

動かん世界やね。

どういったら

いいでしょうか。

 

物質というようなものは

そういう動かぬ…、

物質を転がしたら、

ずうーっと転んで行く

あれは惰性というでしょう

惰性というようなことが

物質じゃないか。

 

置いたら置いたままになる

動かしゃ、

動かすままになる。

惰性やね。

惰性というものが

物の持っとる

時間じゃないか。

つまり死んだ時間じゃないか

そういうものの上に

世界を立てるから動かぬ。

 

生きた世界は

いつでも動いている、

流動していると、

こういうことじゃないかと

思いますね。」

 

先日もそうですが

鴨川の畔から比叡山を眺め

私が死んだ後も

この景色はそのままだろう

と考えるのが

死んだ時間です。

私が死んだらこの世界も

なくなるという

そういうことが

生きた時間です。

 

なんか、

考えずらいかも

しれませんが

仏教の特に唯識では

こういうことをいいます

東京に行くのではない

東京が来ると

こういうのです。

 

こういう問題

また出てきます。

 

 

 

 

コメント
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